「美しい小説を書くためには確固たる世界観が必要で、そこに現実の雑音は入れちゃいけないんですよ」

 5月の講師には、宮木あや子氏をお迎えした。

 1976年神奈川県出身。15歳で小説家を志し、2006年『花宵道中』で第5回R-18文学賞大賞と読者賞を受賞し、作家デビュー。
 時代を問わず、女性の生きる姿を描いて絶大な支持を得ており、2014年から刊行した『校閲ガール』シリーズは石原さとみ主演でテレビドラマ化され、大ヒットを記録した。
 その他、『ガラシャ』『官能と少女』『あまいゆびさき』など著作多数。現在の文壇において、もっとも注目される若手女性作家のひとりである。

 また今回は、ゲストとして吉田智宏氏(早川書房)をお迎えした。

 講座の冒頭は、まず世話人の池上冬樹氏(文芸評論家)がマイクをとってあいさつをし、講師を紹介してはじまった。
「こんにちは、池上です。2017年度2回目の講座となる今月は、宮木あや子さんをお迎えしました。ハヤカワ文庫から出た『官能と少女』を読んで、この人は絶対に山形講座の講師にしないといけないと思いました。山形にいらっしゃるのは初めてだそうですが、山形がからんでくる小説『白蝶花(はくちょうばな)』(幻冬舎文庫)もあり、解説を本講座の常連講師の三浦しをんさんが担当されていて、絶賛されています。後半ではその辺のお話もうかがいたいと思います」

 続いて、宮木氏がマイクをとり、受講生にあいさつ。
「こんにちは、宮木あや子です。私はよく『言葉がきつい』といわれていて、自分ではそんな意識はしてないんですけど、今日の講評でもきつくなっちゃうかもしれません。でも、嫌な人だな、って思わないでくださいね(笑)」

 講座の前半では、受講生から提出されたテキストを教材として、これに講評をくわえた。
 今回のテキストは、小説が3本。

・長谷勁『米「無尽蔵」』72枚
・香川澪『ワインレッドの躰』77枚
・まどか菜々『母の定義』25枚

◆長谷勁『米「無尽蔵」』72枚
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8399530

 米の不作がつづくなか、銘柄米「無尽蔵」だけが、市場に出回る。
 (※この一行梗概の問題点については以下で触れています)

・池上氏の講評
 長谷さんの作品はいつもこんな感じで、夫婦のセックスが出てきて、山形弁が出てきて、子どもが3人いるというパターンが多いんですけど、以前には辻原登さんが講師のときにも取り上げられて、辻原さんが絶賛されたこともありました。
 なんともいえない味があるんです。この味は、長谷さんにしか出せない。非常に土着的なんだけど、とぼけていて、そしておかしなところに着地する。どこに着地するのか、読者にはその行方がぜんぜんわからない。この作品も、途中から「米無尽蔵」なんていうへんな米が出てきて、山奥に秘密のアジトがあるんじゃないか、という話になってくる。そんなバカな話はないだろう、と思っていたら、夫婦が次々に消えていって、土になって、米になりました。そんな話が信じられるか、と思うんですが、でもなんともいえない味があるんですね。
 説得力があるか、といったら「ない」んですけど、文章が持っている力によって、とんでもない世界に入り込ませてくれる。登場する3組の夫婦は、みんな似通ってはいるんですけど、みんなこんなふうにして生きていて、同じようなこともしているし、それぞればらばらに悩み苦しんでもいるんだけど、結局こんなふうに死んでいって、土になって、米になる。何かの糧になる、ということの象徴というか、ひとつの寓話としてそれなりに機能はしていると思うんです。
 ただ、最初は一人称だったのが、語り手が替わると三人称になっていくという構成からくる読みづらさもあるし、夫婦を3組出す理由がいまひとつわからない。もうちょっと、3組のキャラクターをばらばらに描くとよかった。似た名前も避けてね。というのも、手の内があまりにも見え透いているというか、象徴にむかっていく過程が単純すぎるので、もう少しキャラクターの名前を変える工夫などをして、結末も、もっと怖くしてもいいし、神話的にしてもいい。そういうものを描くと、よくなると思います。

・吉田氏の講評
 私は、この小説はとても面白いと思いました。読んだときにまず思ったのは、これは循環の小説だということです。タイトルにもあるお米というのは、本当は無尽蔵ではなくて、農家の方がたくさんの手間をかけて作っていくものですよね。この夫婦の営みとか、世界が移り変わって、人類が継承されていくというのも、無尽蔵に見えて実はとても難しいというか。人の営為があってはじめてなりたつもの、という感じです。
 ですから、お米をゼロから作るように、家族や地域の人がそこで生きる、という営みを、延々とつなげていく。それを循環させていく。土にかえって、そこから次の世代が生まれていく。そういう循環の小説と私はとらえたので、とてもいいものを読ませてもらったな、という感触がありました。
 あとは、きょう新幹線でここへくる途中に宮木さんとも話したんですけど、あらすじがすごくよかったです。1行だけ、というのが。

(池上氏「いちおう講座の規定からいうと、1行というのはダメですからね(笑)。みなさん、ちゃんと100文字か200文字ぐらい書きましょう。本当は書き直してほしかったのですが、時間がなかったのでこのままにしたんです」)

 こういう掟破りなところが、とても目を引きました。新人賞の原稿にも、あらすじをつけてくださいという規定がある場合がありますが、もし第1回の応募でこういうのがきたら、無条件に落とされちゃうでしょう。でも、10回、20回と続いた賞にこれがきたら、「あえてこう書いてきたというのは、何か自信があるんじゃないか」「この1行だけで表しているのには、何か仕掛けがあるんじゃないか」と思わせる。出版社によると思うんですが、いいところまでいくか、あるいは一次選考で落とされるか、0か100のどちらかだと思います。その1行も、物語の筋とは微妙にずれているところが、またチャレンジングだと思いました。これをもし自覚的にされているのであれば、すばらしいです。
 ええと、まだしゃべっても大丈夫でしょうか。

(池上氏「大丈夫です」)

 テーマである米無尽蔵が、ぬえのように何だかよくわからない存在であるのも、いいと思います。けっきょくこの米無尽蔵は、誰がどんな目的で作っているのか、ほのめかしてはいるんですけど、あえて書いてはいない。そこも、読者に考える余地を残していて、いいと思います。あいまいにしたことによって、主題と家族とがぴったり合って、テーマをしっかり見据える作品になっていると感じました。
 女性から見た男性の汚さとか、性の営みとか、人間が生きていくうえではキレイなことばかりではなくて、食べたら出すというような、汚いけれど当たり前なことがあって、そういうキレイとはいえない面にフォーカスしているところも、とても面白いです。私は吉村萬壱さんという作家が好きなんですが、人間、とくに女性が生きていくうえで、その営みの汚い面もグロテスクに書く作家さんなんですね。ちょっと吉村さんの作品にも、文学的に通じるところがあると思います。辻原さんがこの方を高く評価されたのもわかるし、「文學界」や「群像」の新人賞にも合いそうな方だな、という印象を受けました。
 その中であえて、編集者として意見を申し上げるならば、米を育てて収穫するという営みと、家族3世帯の生き方とが結びつくように、米の収穫に仮託して書けるといいのではないか、と思いました。

・宮木氏の講評
 さっき、よしだが絶賛していたあらすじですけど、私はこれを1行読んだときに、時代小説かなと思ったんですよ。米騒動の話かと。そう思ったら「食パンとコーヒー」が出てきて、あら違った(笑)、と思ったので、私は逆に、ちゃんとあらすじを書いてほしかったです。何の話なのかわからないまま読んで、しかも山形の方言もわからない。私は山形に来たこともなかったので、これが山形の言葉だということも、読んだだけではわかりませんでした。なので、できれば最初のほうで、どこのお国のお話ですよ、というのを明記してほしかったです。山形の方が山形の講座に出す話だから、当然みんな山形だとわかるだろう、と思ってお書きになったのかもしれませんが、読むのは山形の人だけではありませんから、なるべく3枚目ぐらいまでには、舞台がどこの地方なのか書いていただきたいです。「上山市」という地名が出てきますけど、これがどこなのかも、私にはわかりませんし。
 新人賞に応募するとか、プロデビューするとかいうことを考えていらっしゃるのであれば、読む人のことを考えてほしいです。
 あと、同じようなことで、7枚目に「店を出て、店主のいうとおり左に入る」とありますが、これは徒歩なのか、それとも車なのか、私はここで悩みました。ここの山は、これは「とりうみやま」というんですか? ああ「鳥海山(ちょうかいさん)」と読むんですか。その山に行って、トンネルを抜けるという描写があるから、ここまでは車で来たんだなとわかるんですけど、その後のここは、店を出て車に乗ったのか、それとも徒歩なのか、気になりました。もしかしたら、山形の人なら、車が当たり前なのかもしれませんけど、東京の人はそんなに車に乗りませんから。もしプロデビューして、東京の書店で本を売るという場合は、できればそういう細かい描写も入れてほしいなと思いました。
 文章は本当に、ものすごく上手だなと思います。純文学って私はほとんど読まないんですけど、長谷さんはきっと純文学をすごく読まれてきた方なんだろうな、と思いました。
 この注意は、あくまで「プロデビューするなら」の話ですよ。デビューしないで、自分で楽しく小説を書くのなら、ぜんぜんそういうのはなくてもOKです。
 私、さっきの池上さんとよしだの講評を聞いてびっくりしたんですけど、これって最後は人間が米になっちゃう話なんですか。私はそう思ってなくて。純文学的な発想がないせいか、私はこれをミステリかなと思ったんです。ミステリとかホラーのたぐいかな、と思って読んだんですけど、米「無尽蔵」を作っているのは、最初に失踪した夫婦の夫なんですよね? 2話目の最後に「牛の声が聞こえた」とあるし、3話目には、丸太を背負った老人が出てきて、それから牛に丸太をひかせて田んぼを作るという話もあるので、私は、失踪した夫が、丸太をひきずって山奥へ行って、そこで米を作っているんだろうなと思いました。なぜなら、1話目には「無尽蔵」は出てこないんですよ。その解釈でいいんですよね?

(長谷氏「そうです。2話目は不作になって3年すぎた年で、3話目は2年目の年です」)
 ね、私の解釈が合ってたんですよね? やった!(笑)。よしだも気づいてなかったもんね、編集者のくせに(笑)。
 だとしたら、最後は人間が米になっちゃうような書き方じゃなくて、具体的な未来が見える一文で終わらせてほしかったな、と思いました。こんなに文章がうまいし、3話の連作みたいにして謎解き要素もきちんと入れられるんだったら、納得できるような最後の何行かがほしかったです。
 あと、これも「プロになるなら」という前提にして考えたことですが、こういうふうに文章のうまい純文学の作家さんというのは、たぶん年に20人か30人はデビューしてますよね。それと差別化するためにも、長谷さんはホラーを入れたほうがいいです。ホラーが絶対に書ける文章だと思うから。辻原さんがおっしゃることとは違うかもしれませんけど、私は、この文章でホラーの要素が入ったら、差別化できて、光るんじゃないかと思いました。

◆香川澪『ワインレッドの躰』77枚
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=839948
 ケーキ屋の息子である秋山葵(あおい)は、息子であって息子ではない。それに薄々感づいていた父のある行動が原因となり、小学四年生の夏休みに、葵の母親は家を出て行った。第二次性徴に違和感を感じながら、葵は成長していく。大学生になった葵はある日、平尾光というネイリストに出逢う。それをきっかけに、それまで恋愛に対して頑なだった葵は、次第に変わっていく。光自身も、葵という人間の輪郭に触れることによって変わっていく。しかし葵は光に溺れたままではいけないと考え、光との関係をリセットしようと試みる。

・池上氏の講評
 心はかぎりなく女、でもゲイではないという少年がもうひとつ見えてこない。性的昂奮の時の性器はどうなるのか、どうするのかという問題もふれられない。性のめざめはいかなるものだったのか、夢精、自慰、何に対して欲情を覚えるのかをまったく書かないで話を展開しているから、読者はおいてけぼりになる。とりあえず男性(とよぶ)の、体としてのメカニズムを理解しないまま、頭の中で、ストーリーを作り上げている気がする。
 人間と人間との触れ合いを、精神的・肉体的な接近を通して官能的に、具体的に捉えているのはいいが、この葵という少年は何を求めているのか、何に悩んでいるのかが見えないんですね。おそらくその問題の根底にあるのが、“変態”とよばれる父親の存在だろうが、この父親がまったく描かれずに終わっているから(母親が“変態”とよぶ内実もない)、深く掘り下げられることがなくなってしまった。そこが残念です。
 葵を女性にして、同性愛のほうがもっと説得力があるような気がするのだが。男の子が最後、赤いもの(相手の女性の生理)をなめるというのは、小説としての終りとしては坐りがいいし、ドラマティックでもある。でも、物語の感情をかきたてるという点から見たとき、物足りなさを覚える。小説ではなく短歌ですが、林あまりの短歌にはもっと過激なものがある。生理中の男女の性交を詠んでいるのですが、短歌を読むと過激な印象はなく、むしろ強い“愛”を感じる。香川さんの小説の、この結末では“愛”は伝わらない。

・吉田氏の講評
 私がこの作品を拝読してまず思ったのは、身体という入れ物に何を入れるか、という話なのかなということでした。それぞれいろんな性的な立場の人たちがいて、それぞれ自分の身体に違和感を持っていたりする。その身体の中に自分の魂があるわけですが、じゃあその魂を取り出してどこに入れるか、という話かと思ったんですね。
 主人公の葵くんに限っていうと、最初はまずきれいなお人形が出てきて、彼も同じような存在だということが暗示される。お人形だった彼が、お父さん、お母さん、光さんといった人たちとの関係があって、成長していく。そうして、自分という存在ができていくのですが、最後は光さんと別れてまたお人形に戻ってしまう。そんな印象を、私は受けました。自分の魂をどこに持っていって、どう生きるか。そういうお話として、心に残った作品です。
 編集者の立場から申し上げることがあるとしたら、主人公の葵くんが、お人形なんだけど、自分はお人形としてどう生きるかという決意とか、気持ちとか、そういうものがラストに仮託されていると、よかったかなと思います。池上さんもおっしゃるように、ドラマティックできれいな終わりなんですけど、葵くんはいったい何だったのか、ということがぼやけてしまった印象があります。たとえば、光さんからほめられていた、きれいな指が彼のアイデンティティになっていると思うので、ラストでその指を切ってしまうとか、爪をはがして布団に置くとか。葵くんは何者だったのか、ということをラストで印象づけるとよかったかと思います。

・宮木氏の講評
 さきほど池上さんから、著者の方が20代前半の若い女性だとお聞きして、なるほどなと思いました。せっかくの機会ですから、厳しくいきますね。
 まず題名なんですけど、『ワインレッドの躰』。これはもう少しなんとかならなかったのかなと思います。ワインレッド、という単語自体が、すごい80年代臭がするので(笑)。もう少し平成に寄せられなかったかな。
 それからあらすじです。もし新人賞に応募して、このあらすじを読んだ審査員の人が、本文を読みたいと思うかな、と考えると、ちょっとわかりにくすぎると思います。「ケーキ屋の息子である秋山葵は、息子であって息子ではない」っていう。これはもったいぶってるな、という気がします。新人賞に応募する書き手というのは、まだ下読みの担当者に「読んでいただく」立場だから、なるべくこの数行で、話のすべてが見えるように書かなきゃいけない。そのためには「男であるが、自分のセクシュアリティに悩んでいる」みたいにする。そして「それにうすうす感づいていた父親が、人形を買ってきた」というように、事実を書いていかないと。これではどちらかというと、あおりというよりは帯文です。
 あとは、1枚目の4行目に「こういうとき奥二重であることは不利だ」とありますが、この「であること」という言葉は不要です。「奥二重は不利だ」でじゅうぶん通じますから。私も、ここ2~3年ぐらい前までやってしまっていたんですけど、「という」という3文字と、「こと」という2文字を、どうしても多用してしまうんですよ、初心者は。私も2年前まで気づかなかったので、デビューしてから8年間は初心者だったんですね。「という」「こと」は本当に多用しがちなので、校正するときは気をつけてください。
 あと、2枚目に「ショーケースの中をきょろきょろと見回し」とありますが、これは擬音を間違えている。ショーケースの中を「きょろきょろ」とは見回さない。きょろきょろ、というのはこういう感じ(首を左右に振ってみせる)です。ショーケースの中は「まじまじ」と見るほうが、しっくりきます。
 全体的に、擬音がとても多いんですよ。たぶん、すごく美しい世界観の小説を書きたいと思っていらっしゃるんでしょう。出てくる小物なんかを見ると、そう感じます。きれいな世界を描きたいんだろうな、というのはひしひしと伝わってくるんですが、その世界観を壊すような、がさつな擬音はなるべく使わないほうがいい。2枚目の真ん中ぐらいにも「わたしの手をがっと掴んだ」とありますが、ここは「がっと」ではなく、その音を何か違う言葉で説明できると思うので、類語辞典とかを駆使して探してみてください。私も、東京堂の類語辞典というのをすごく使って、文章を作っています。これは面白いのでみなさんも使うといいですよ。あと、『日本語使いさばき辞典』(東京書籍)というのもすごく役に立ちます。
 あとさっき、よしだと話してたんですけど、光ちゃんという人物は、どんな人を書きたいのかすごくよくわかるんです。でも、よしだに、ここに書いてあるように手をがっと掴まれたらどうだ、って聞いたら「イヤ怖いッスね」って言ってたんで(笑)。たぶん、ふつうの人はこういうことをされたら怖いと思うから、光ちゃんのアプローチ方法は、もうちょっと常人に寄せたほうがいいと思います。これだとちょっと怖いです。
 あと、4枚目にビスクドールのことが出てきますが「陶磁器のような肌」とありますね。これは、ビスクドールだから陶磁器なのは当たり前です。「ような」ではありません。
 あとね、さっきの1作目の方といっしょなんですけど、もうちょっと季節とか場所とかの説明をていねいにしたほうがいいです。そう思ったのは、8枚目の「高校生になっても、わたしに生理はこなかった」から何行かあけて「そんなわたしとは対照的に、ソメイヨシノの木々はさっさと桜の花びらを散らし終え、次第に青々しく染まっていった」ですね。ここに私は違和感をおぼえました。「高校生になっても、わたしに生理はこなかった」から数行はさんだことで、時間が経過したような気になってしまっていたので、「ソメイヨシノの木」が出てきたところで時間が巻き戻されたように感じたんです。なので、もうちょっと文章を組み立て直すと、違和感がなくなるんじゃないかと思います。
……大丈夫です? 私の言ってること、合ってます?

(池上氏「大丈夫です」)

 あとですね、また擬音問題ですけど、植村くんにキスされたときの「ぶに」という擬音も、雑すぎるのでもっと考えてほしい。あと、17ページ目……すみません、なんか断片的なことばっかりで……。17ページ目に「かっこいいから、という理由だけで告白してくる女子たちは、なんとなく苦手だった」とありますが、これは「なんとなく」ではありませんね。そのあとの数行を読めば、むしろ積極的に苦手だということがわかるので、これは不要です。
 あと19ページ目に、植村は葵が女っぽいからゲイだと思っていた、という話を聞いて「女っぽい男はゲイなのか。植村の斬新な発想を受けて、わたしはしばらく考え込んだ」とありますが、これは斬新な発想ではないです。そのうしろに、葵自身のセリフで「わたしたちみたいなマイノリティは、世間から認知されてないんじゃなくて、無視されて、いないことにされてるだけ。男女二元論者たちには、それができるだけの力と数があるから」と書いてあるじゃないですか。だから、別に植村の発想は斬新ではありません。なので、「女っぽい男はゲイなのか。植村の言葉を受けて、わたしはしばらく失望した」みたいな感じにしても、ぜんぜん大丈夫です。
……すみません、細かいことばっかりで。あと、21ページの最後に「パンセクシュアル」という言葉が出てきますが、私もよしだも、これがわからなかったのね。だから、この言葉に関して、不自然にならない程度にそっと説明を入れてあげるといいと思う。バイセクシュアルとパンセクシュアルって、似ているようで微妙に違うんですよね、きっと。だとしたら、これはわからない人のほうが多いと思うから、入れてあげてください。
それで、最後の行に「わたしの指が好き。初めから一貫してブレない光さんが眩しく見えた」と書いてありますが、全体を読み直しても、指がどんな形でどんなふうに美しいのか、書いていないんですね。光から「美しい」と言われたことで、葵は自分の指に愛着を持つと思うんですよ。好きな人に「好き」っていわれたところって、自分でも好きになるはずだから。たぶん、葵ってけっこうナルシストだと思うので、自分の指をどう思っていて、どんなふうに美しいのか、どこかで描写を入れてほしいです。光さんにはどんなふうに見えていて、自分ではどんなふうに思っているのか、とか。そういう描写を入れるには、いちばん不自然じゃないタイミングだと思ったのが、この21ページの最後の行でした。そこ周辺に描写を入れると、そういう指をしてたんだ、と読者はわかると思います。
 すみません、しつこく擬音問題なんですけど、23ページの、セックスの描写のところです。ここはけっこう見せ場だと思うんですよ。たとえば過去のR-18文学賞とかに応募するとしたら、ここがいちばん見られるところなんですけど、セックスの描写が、雑! 擬音が多すぎるんですよ。「わたしは肉が薄いから、彼女の歯で骨をごりごりと削られるように噛まれると、そこがじわじわと痛んだ」、ここで「ごりごり」と「じわじわ」が重なっていて、ちょっと冷める。それから「彼女の執拗な愛撫に、やがてわたしはふわっとした感覚に支配され、がくんと腰が浮いた」ここでも「ふわっと」と「がくんと」が、ものすごく至近距離で出てくる。これも「やがてわたしは浮遊するような感覚に支配され」みたいな感じで別の言葉にできるし、「はじけるように腰が浮いた」とかにもできるし。
 あとは、新宿二丁目の描写ですが、これはいるのかなと思いました。どんな世界観のものを書きたいのか、がちょっとブレてるなと思って。私は、性的マイノリティ同士の、変わった子同士の美しい小説を書きたいのかなと思ったんですけど、美しい小説を書くためには確固たる世界観が必要で、そこに現実の雑音は入れちゃいけないんですよ。現実の雑音を入れてしまっているのが、この二丁目の描写なんです。だから、ここは二丁目じゃなくて、架空の街でもなんでもいいから、ゲイが集まるコミュニティみたいな感じで描く。二丁目にしてしまうと、とたんにメディアが作っているあのイメージに支配されてしまうんです。オネエがいっぱいいる、オカマがいっぱいいる、そういうメディアが作り出した世界を連想してしまうから、やめたほうがいいと思います。
 細かいところの指摘は、それぐらいですかね。
 総評としては、香川さんがほかにどんな作品を書いているのか気になりました。やはり性的マイノリティの話ばかりなんでしょうか?

(香川氏「いえ、ぜんぶそうではないです」)

 そうですか。私は、この作品を読んですごいメッセージ性を感じたんですよ。私がR-18文学賞を受賞したときに、編集者に心配されたのが「この人は書き続けられるだろうか」だったんです。なぜなら、私が応募したのが、江戸時代を舞台にしたエロ小説だったから。でも私、その前の年には現代ものを応募していたんですよ。それを編集者が覚えてくれていて「この人は書ける」というので受賞させてくれたんですね。こういうメッセージ性の強い、変わっている人を書いている小説が、香川さんの全力だったとしたら、次の作品が書けないんじゃないかと心配になったんですけど、いままで書き続けているんだったら大丈夫だと思います。世界観をもっと作り込むのと、現実のものだったら現実のものをしっかり描写するようにする。私は、これは美しい世界観で書いたほうが絶対いいと思うので、もうちょっと世界をきれいに整えてあげたら、もっとよくなると思います。がんばってください。


◆まどか菜々『母の定義』25枚
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8399586
 女子大学生の真帆は、同級生の大志と交際をしているが、ある悩みを抱えると同時に大志への思いも冷めかけていた。
 真帆は大志と「母の定義」について問答するが、納得いく答えが出ぬままに大志の機嫌を損ね、なし崩し的にセックスに至る。
 真帆は自分の育った家庭について回想する。真帆の母は家庭内で存在感の薄いままに病にかかり早世し、真帆にとって思い入れのない存在だった。やがて自分を溺愛していた祖母とも溝が生まれ、真帆は現在実家と疎遠である。そんな自分の生い立ちと正反対の環境で育った大志に、真帆は唐突に別れを切り出す。
 母と同じく存在感の薄かった父と、久しぶりに二人で食事をした真帆は、誰にも言えなかった悩みを抱えていることを父に見抜かれ、吐露する。

・池上氏の講評
 まどかさんは初めての受講ですが、これは何作目ぐらいですか?

(まどか氏「ふだんはショート・ショートを書いているのですが、70作ぐらいだと思います」)

 そうですか、けっこう書かれてますね。
 この作品はですね、小説のジャンルにはいろいろなくくり方がありますが、僕のくくり方の一つをあげるなら、「主人公が最後に泣く小説」ですね。ハードボイルド小説のファンが集まると必ず話題になるのが、ローレンス・ブロックの名作『八百万の死にざま』(ハヤカワ文庫)ですが、あの小説も、最後に主人公が泣くんです。そして読者もまた泣くんです。絶対に泣かないヒーローが泣くからこそいいのであって(また、それを説明するくだりが素晴らしい)、安易に泣かせてはいけない。
 主人公が泣く場面で終わるのはすごく後味がいい。読者も泣きたがっているので(笑)、読者はみんな「感動した」「よかった」と思うんだけど、ではどういうふうに泣かせるのかという戦略が必要です。泣かせる必然性をどうするか。主人公が泣く瞬間を、誰が見ていて、どんなふうに言葉をかけるのか。これが大事なんですよ。
 この作品では、主人公が「私、妊娠してしまった」と突然言いますが、伏線が充分に張られていないので、唐突な感じがする。びっくりしてしまうというか、飛躍があると思います。どこかにワンクッションおいて、「妊娠しているかもしれない」ということを匂わせる場面がひとつでもあると、飛躍した感じはなくなるんです。
 そして、このお父さんが、冒頭で主人公に「泣いてもいいんだよ」と言って、ラストでまた同じ台詞を言う。これは僕にいわせると陳腐。お父さんにいい立ち位置を与えたかったのかなとも思いますが、やっぱりこの段階で「泣いてもいいんだよ」と言うお父さんは、いったい何者なんだという感じがします(笑)。お父さんだったらもっと別なことを言うんじゃないでしょうか。
 もっというなら、このラストで別に主人公を泣かせなくてもいい。自分が陥ってしまった状況をかみしめる場面でいい。ここで泣かせてしまうと、主人公のそれまでのがんばりがなくなってしまうし、弱さだけが強調されてしまう。だから、泣かせなくてもいいのではないか、僕はそう思いました。

・吉田氏の講評
 まずタイトルが印象的ですね。母親というのは定義づけしないといけないものなのか、とびっくりして、ひっかかりのあるタイトルだと思いました。読者に問いを投げかける、という意味では成功しているタイトルだと思いました。
 読み終えて思ったのは、真帆のお母さんは、脳の病気がありながらも、最後まで「真帆のお母さん」であろうとしたんじゃないか、ということです。一方で、真帆のほうは自分から、お母さんの娘であることを断ち切ろうとしたのではないか、そう感じました。
 全体的に感じたのは、『母の定義』というタイトルで書こうとしていたものが、最終的には「娘の定義」を読む側につきつけてきたのではないか、ということです。そういう意味で、二重構造になっているところが、すごくチャレンジングな作品だと思いました。
 ただ、問いを投げかけるような作品だとは思ったのですが、内容はきれいで引っかかりがなくて、連載途中の第何回目とかなら、すごくいい展開の一部だと感じました。ですが、この25枚の作品として新人賞に出したとしたら、あまりにも引っかかりがなくて、キャラクターの描写も薄いですので、もうちょっと読者を引っかけるような描写や展開が必要だったのではないか、と感じました。それが具体的に何なのか、というのはすぐには言えないんですが、作者の才能を感じたのは、お母さんがお茶をいれたことを忘れてしまって、お茶を3回いれるというところですね。たとえばミステリを書いてみて、お茶をいれる場面を3回に分割して書いていって、最後に3回目のところで「今日3回目だよ」と真帆に言わせてみる(3日間、別の日にお見舞いに行ってそのたびにお母さんがお茶を淹れてくれてる、と読者に思わせる。実際は一日の短時間のうちの出来事で、立て続けに3回もお茶を淹れてしまっている、とラストで読者の認識をひっくり返す)。つまり「母の定義」というのを文学的なものではなく、ミステリの趣向を使った物語にしたほうが、より読み手のほうにインパクトを与えられるのではないか、と感じました。
 それを25枚で書くことができたら、かなり濃縮されたすごい作品ができるのではないか、と思いました。

・宮木氏の講評
 まどかさんは70作も書かれている、とのことですが、そんなに書かれてきたのに、なぜいまこの作品なのかな、と思いました。
 というのも、こういう感じの家族小説って、みんなわりと序盤に書くんじゃないかな、って。これは純粋な疑問なんですけど、そんなに書いておいて、いまなぜこの作品を書いたんですか。

(まどか氏「ずっと前から書きたかったんですけど、形にならなかったので、たまたまこのタイミングになりました」)

 そうですか。正直いって、これでは賞は取れないと思います。ただ、自分が書きたくて、思い出に残したくて書いて、それで「書けてよかった」と思えるんだったら、すごく「よかったね」って思います。新人賞とかそういうことを度外視してお話すると、すごくいい、しみじみといいお話なんですけど、やっぱり文章はもうちょっとていねいに書けなかったかな、と思います。私ね、さっきも言ったんですけど、言葉の重複がすごくいやなんですよ。1枚目の「胸の内に、微かな失望が生まれるのを感じた。これが生まれる予感を、もっと前から感じていたような気もした」という、わずか2行の間に「感」という漢字が3つも出てきているんですね。ここは「予感」のかわりに「予兆」を使うなど、文章を整えていってみませんか?
 あとね、彼氏の大志くんが、ひどいよね。もう、いい子すぎてムカつく。すごい不快だったの。読んでてちょっといやな気分になったから、もうちょっと敵役を愛せるように書いてほしい。そうすると、小説ってたぶんもっと面白くなるんですよ。大志くんってすっごくいやないい子で、真帆の心の瑕疵みたいなものが、ぜんぜんわからない感じに書いてあるじゃないですか。でも、大志くんにも何か愛すべき欠点みたいなものがあれば、私はもうちょっとこの小説を好きになれたかな、って思います。
 それからね、お母さんがかわいそう。おばあちゃんもいやなやつだし、娘の真帆ちゃんもね、何かもうダメな子だよね。まどかさん、この主人公のこと好きですか?

(まどか氏「思い入れはあるんですけど、好きかといわれると、好きではないかもしれません」)

 ちょっとだけ愛を注いであげると、読む人もちょっと愛を持って読めるんです。誰かに愛を注いであげてください。
 あのね、最近は「主人公に共感した」とか「感情移入した」という感想がもてはやされていて、私は感情移入クソ喰らえと思いながら小説を書いてることもあるんですけど、やっぱり読者って共感したいんですよ。でもね、書店で本の帯に「共感しました!」みたいなのが乱立してるじゃないですか。超うんざりしませんか? 「『共感しました』? 知るかボケ!」って思うんですけど、でもやっぱり「共感しました!」の帯が書店からなくなる日がこない限り、読者はみんな小説に共感したい。でも、この主人公にはちょっと共感できないかな。
 気持ちはすごくよくわかるの。お母さんをうとましく思う気持ちとか、おばあちゃんが死んでもお友だちには笑って手を振っちゃうみたいな、心のどこかが壊死しているような気持ちはわかるんだけれども、それを「仕方ないよね」とは思えない。何かムカつく、って思っちゃう主人公だから、それこそ「共感しました!」ってPOPがつくような感じに変えてみてください。たぶん信念を曲げるのはすごくつらいと思うんですけど、70作も書いていらっしゃるということは、プロを目指していらっしゃるんですよね? どうなんですか? 目指してないなら、いいです。趣味なら、楽しいのがいちばんです。楽しいな楽しいな、と思って書けているんだったら、いいと思います。ていうか、それだったらここに来る必要ないんじゃないですか?

(池上氏「いやね宮木さん、プロを目指している書き手でも、ここで講師に『プロを目指しています!』とは、なかなか言えないものなんですよ」)

 言ーおーうーぜー!(机をバンバン叩きながら)

(池上氏「これはね、まどかさん。恥ずかしいかもしれないけど、言ったほうがいいんですよ。自分の立ち位置もはっきりして、甘えもなくなるし、周りも応援してくれるし、厳しいことも言ってくれますから」)

 この作品は、今回の3作の中ではいちばんいいと思ったから、順番を最後にしました。ただタイトルはちょっとね、私はお母さんと仲が悪いので、もやもやするものがありました(笑)。『母の定義』はいいけど、ちょっと固いので、人間関係を象徴しているもの、この作品ではお茶ですね。『三杯目のお茶は渋い』とか、『三杯目のお茶は胃がふくれる』とか、そうやってお茶にからめるといいかもしれないです。これで大丈夫です? 何か聞きたいことあります?

(まどか氏「いえ、ありがとうございました」)

 はい、じゃあ講評はこれで終わりね。

※以上の講評に続き、後半では小説家を志してからデビューに至るまでの経緯や、物語の作り方、世界観へのこだわりなどについて、真摯に語っていただきました。その模様は、本サイト内「その人の素顔」にてアップいたします。

【講師プロフィール】
◆宮木あやこ(みやぎ・あやこ)氏

1976年、神奈川県生まれ。13歳の時に小説を書きたいと感じ、15歳で小説家を志す。2006年、江戸時代を舞台にした小説『花宵道中』で第5回R-18文学賞大賞と読者賞を受賞してデビュー。その後『雨の塔』『白蝶花』『群青』『太陽の庭』『春狂い』『官能と少女』『校閲ガール』『喉の奥なら傷ついてもばれない』など多くの著作がある。13年『セレモニー黒真珠』で第9回酒飲み書店員大賞を受賞。『校閲ガール』は16年に石原さとみ主演で『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』としてドラマ化された。鋭敏で繊細な女性心理描写と官能描写、また艶やかな文章に定評がある。

● 花宵道中 (新潮文庫)  ※第5回R-18文学賞大賞受賞&読者賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4101285713/

●雨の塔  (集英社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4087466698/

●白蝶花  (幻冬舎文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4344425766/

●群青   (小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4094083871/

●太陽の庭   (集英社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4087450406/

●春狂い   (幻冬舎文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4344423313/

●官能と少女  (ハヤカワ文庫) ※テレビ・ドラマ化
https://www.amazon.co.jp//dp/4150312249/

●校閲ガール  (角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041042208/

●喉の奥なら傷ついてもばれない  (講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062197855/

●セレモニー黒真珠  (MF文庫ダ・ヴィンチ)
※第9回酒飲み書店員大賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4840142815/

●あまいゆびさき(ハヤカワ文庫JA)
https://www.amazon.co.jp//dp/4150312494/

●婚外恋愛に似たもの(光文社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4334768709/

●校閲ガール トルネード(角川書店)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041044928/

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