「筆をゆるめてきれいごとにしたら、かえって失礼になることもあります。書かずにいられない作家の業が、島尾敏雄さんにも、私にもありました」

 今回は、ノンフィクション作家の梯久美子さんをお迎えして、梯さんがノンフィクション作家になるまでの経緯や、傑作ノンフィクション『狂うひと』の誕生秘話について、お話していただきました。

◆作家・ライターのふところ事情/値段をめぐる大人の事情/雑誌媒体の衰退

――梯さんは、「小説家になる、というのはむずかしいことですよね」とおっしゃいますが、ノンフィクション作家になるほうがむずかしいんじゃないでしょうか。

 ここにいらっしゃる皆さんもきっとそうでしょうけれど、私も若い頃に小説に救われる経験をしているんですね。なので、小説家に尊敬とか憧れの気持ちを持っているというのがまずあります。小説家は選ばれた人がなるものだ、という思いがある。ノンフィクションにももちろん能力が必要なんですが、天賦の才というより、スキルの部分が大きいように思います。あと、食べていくということでいうと、小説のほうが厳しいかもしれないという気がします。出版界全体としては、小説の方が売れるわけですが、書き手の数も多いですから、筆一本で生活していける人の割合からいうと、小説の方が少ないかもしれません。
 ノンフィクションは「冬の時代」とずっと言われていまして、たしかに厳しいですが、時間をかけてまとまったものを書く一方で、雑誌のルポとか人物取材、インタビュー記事、あと書評とかエッセイとか、そうしたもので生活を支えることもできる。私が初めての本を出したのは43歳のときだったんですが、それまでいわゆるフリーライターとして、そうした雑誌の仕事だけで生活していました。署名記事ではないものも多かったんですが、それでじゅうぶん食べていけましたね。

――えっ(驚く)。それは梯さんだからじゃないですか。

 少なくとも私の場合、作家になってからよりフリーライターのときのほうがもうかってました。

――たしかに作家はなかなかもうからないですね。評論家やライターのほうがもうかると思います。なぜかというと、小さな仕事をいっぱいやっていますからね(笑)。ちりも積もれば、でね。

 もうかるというより、稼ぐという感じですね。もうかるというのは、1のものが5になったり10になったりすることでしょう。ライターにはそれはないですから、ひたすら書きまくるしかない。私もほんとうにいろいろな仕事をしました。女性誌の実用記事、たとえばダイエットとか健康法とか、そういうのもずいぶん書きましたし。インタビューも、それこそ松田聖子さんから吉本隆明さんまで。あと、映画のパンフレットの原稿も長く書いていました。そんな中で身につけたスキルがのちのちすごく役に立ちました。

――でも、これから出てくるノンフィクションライターは、むずかしいでしょう。

 たしかにそうかもしれませんね。まず取材をしなければいけないけれど、それにお金がかかりますから。私の取材なんかは、すごくお金がかかるわけではないけど、時間はかかります。ちゃんと取材をして書くと、1、2年に1冊出せればいいかな、ぐらいのペースです。本の定価が1500円だとすると、1万部刷ったとしても印税が150万円ですが、いまの時代、初版1万部は刷ってもらえません。この『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―』(新潮社)も、初版は5000部でしたが、それでも多いぐらいです。ひと昔か、ひと昔半ぐらい前だったら、もっと初版部数も多かったんですが、いまノンフィクションで初版5000部というのはいいほうです。

――たしかに、1冊3000円(税抜)もする本を5000部も刷るというのは、すごいですね。

 私はもう少し安くしたかったんですが、採算ラインを考えてこの定価になったということだと思います。発売してからもうすぐ半年になりますが、いま7刷でして、このくらい刷れるとわかっていたら、もう少し安い値段にできたかもしれないんですが……。

――ノンフィクションはなかなか売れない時代になって、雑誌もなくなってしまいましたからね。雑誌がなくなると、活躍する舞台がなくなるから、書き手も出なくなる。連載媒体がないから、と原稿持ち込みで本を出しても、1冊で50万円とか60万円ぐらいにしかならない。というわけですね。

 それに経費もかかるわけですから。いまは出版社からなかなか経費を出してもらえません。池上さんのおっしゃるように、ノンフィクションを載せる雑誌もどんどんなくなっていますし、そうすると何が困るかというと、雑誌に載れば原稿料が出るわけですよね。連載が終わってから本になって、そこで印税が出るので、原稿料と印税を合わせれば、ぎりぎりなんとかなったりする。でも書き下ろしとなると、1年ぐらいかけて書いても70万円とかですから、そうとうきびしいです。
 この『狂うひと』は、文芸誌の「新潮」に連載していたものです。3000円の本が初版5000部だと、印税は150万円。10年かけて書いた本がそれだけだとたいへんですけど、この本は1300枚ぐらいあって、その分の原稿料はもらっているんですね。これはすごくありがたかったです。

――先日東京で、有名なノンフィクション作家と話をする機会がありました。その人は4人の子どもがいる家族持ちで、だけど都内に家を建てたとか。話をうかがうと有名雑誌に寄稿されているのですが、とくに「AERA」などはすごく原稿料がよかったとか。

 「AERA」には私も寄稿していました。たしかに原稿料はよかったですね。しかも経費は別に出る。とくに「現代の肖像」という人物ルポのページは、3か月とか半年とか取材期間をくれるんです。私は2001年から2010年まで、全部で10本書きましたが、ひとりの人物を1年間にわたって取材したこともあります。海外取材にも行かせてもらいましたし。いまはそこまで贅沢な取材はなかなかやらせてもらえないと思いますが……。あと、最近の誌面を見ると、外部のライターの記事が減っている印象ですね。そういう面でもフリーの書き手はきびしくなっている。

――僕たち書評家にとっては、ギャラがいちばんよかったのは女性誌ですね。署名原稿で書けたし。でも、雑誌が経費削減をするとき、最初に削られるのは書評欄なんです。次に削られるのは、有名なライターです。どうなるかというと、編集者の作った無署名の原稿が増える。そうやって、原稿料を出さないように、出さないようにするんですね。
 小説家でもそうですが、いま、本を1冊出したとして50万円というところです。もちろん、ベストセラーになれば億単位になることもありますが、甘い夢は見ないでください。賞をとっても「お仕事をやめないでください」と、編集者に言われますから。

 (笑)。

◆上京、就職、そして編プロ/丸山健二のみちびき/栗林中将との出会い

――梯さんは、どうしてノンフィクションライターになったんですか。

 私はもともとは編集者になりたかったんです。大学を出たのが1984年ですが、当時まだ男女雇用機会均等法がなくて、編集職の募集は男性のみという会社ばかりでした。後になってこの世界に入ってみたら、同世代やそれより上でも女性がいっぱいいて、入るルートはあったんだとわかるんですけど、地方の女子大生だったのでそんなことはわからないわけです。
 それで、専業の出版社ではないけれども、出版部門のある会社を探しまして、上京してある企業に入りました。そして2年目で念願の出版部に回してもらえたんですが、どうしても上司と合わなくて、1年だけ編集の仕事をやって、会社を辞めてしまったんです。1986年のことでした。
 もう会社勤めはいやだと思って、結婚して上京していた大学時代の女友達と二人で編集プロダクションを作りました。まもなくバブル時代がやって来たこともあって軌道に乗って、社員も数人ですが雇って、女性誌を中心に仕事をしました。ムックを一冊丸ごと請け負ったり、単行本の編集もしましたね。地道にやっていましたから、バブルが崩壊した後も順調でした。でも39歳のときに、「このまま一生、編プロの経営者でいいのかな」と思ったんですね。部下も育ってきて、それはとてもいいことなんだけど、共同経営者の友人と私は管理業務みたいなことばかりになってきた。それがつまらなくなってきてしまったんです。それで、友人に相談して、彼女に会社を任せて、私は退かせてもらうことにした。専業ライターとして一からスタートすることにしたんです。それが2001年の初め、40歳になる少し前のことです。

――それはまた大胆な行動ですね。

 いま持っているものを手放さないと、新しいものを掴めないと思ったんですね。価値のない、要らないものを捨てるのではなく、価値のあるものをあえて手放す。それができないと前に進めない、と。共同経営の彼女とはとてもうまくいっていて、居心地のいい職場だったし、今までの人生で、その会社にいるときが一番、収入も多かった。でもこれからもずっと同じことをやっていくのかと思うと、急につまらなく思えてきて。今思えば無謀ですが、フリーランサーには向いていたのかもしれません。私は意外と簡単に何でも捨ててしまう人で(笑)、最初の会社を辞めたときも、札幌から東京に出てきてひとり暮らしで、貯金もなくて、2年ぐらいしか勤めてないので退職金も2万円ぐらいでしたけど、それでも辞めてしまいましたから。編プロ時代の最後の方に、「AERA」の仕事を1本か2本、やっていまして、編集部の人に「会社辞めるんです」と言ったら、止められました。
 
――それは止めるでしょう。

 でも貯金がありましたから(笑)。それまで、それこそ土日も休まずに……まあそれは心底好きでやっていたし、金銭面でもしっかり報われたわけですが……働いてきましたから。それに、もしライターの仕事がなかったら、マクドナルドでアルバイトすればいいと思っていました。うちの近所に新しくてきれいなマックの店舗があったんですよ。最初の会社を辞めた時は、編プロが軌道に乗るまで、当時住んでいたアパートの最寄り駅のパチンコ屋の屋上にあったゴルフの練習場で受付のアルバイトをしていました。再就職する気はなくて就職活動をしなかったので、失業保険はもらえませんから。そこは時給がすごく良くて、採用の倍率が7倍もあったんですが、それを勝ち抜いて。あの時に比べたら、貯金もあるし、楽勝じゃんと思いました(笑)。
 で、「AERA」やその他の女性誌など、雑誌の記事をいろいろと書いて、2年目に、「AERA」の「現代の肖像」で丸山健二さんを取材したんです。そのとき42歳でしたが、丸山さんに、「その歳で著書が1冊もないというのは、今後ライターとしてやっていくうえで大変だよ」と言われまして。「もしかして小説家志望ですか」と言われて、小説を書く気はないと答えたら、「硫黄島の栗林中将って知ってますか」と突然聞かれたんです。「知りません」と言ったら、「日本の軍人にはめずらしく合理的思考ができる人で、かつ家族思いの人だった」「梯さんみたいな人が書いたら面白いと思うんだけどね」と。軍人の話なんて絶対無理だと思ったんですけど、「現代の肖像」って何度も取材するので、翌月も丸山さんに会う予定になっていたんです。で、丸山さんは長野在住なんですが、その帰りの「特急あずさ」の中で、携帯でAmazonを開いて「硫黄島 栗林中将」で検索したら、手に入る本が2冊しかなかったんです。当時はまだ映画で取り上げられる前で、有名じゃなくて。その2冊を注文したら、1冊に、栗林さんが硫黄島から奥さんに出した手紙が載っていたんですね。遺書のような手紙なんですが、最後に3項目の追伸があって、「家のことはたいてい始末をつけてきたことと思いますが、お勝手の床下から吹き上げるすきま風の始末をしてこなかったのが心残りです」と書いてあったんです。そのひと言にビビビっと来た(笑)。
 この人はいったいどういう人なんだろう、と思って調べ始めたんですけど、ここで話すと1時間ぐらいかかるようないろんな偶然があってですね、最初はぜんぜん書くつもりもなかったその本(『散るぞ悲しき硫黄島総指揮官・栗林忠道』新潮社)の取材を始めました。で、2年後に本が出たんです。

◆初めての単著で受賞/軍人ものが続いた理由は/亡くなった人たちとどう付き合うか

――2005年でしたよね、たしか。

 そうですね、2005年の夏です。それで大宅壮一ノンフィクション賞をいただきました。

――そうか、では丸山さんと出会わなかったら、ずっとライターをやっていたかもしれませんね。

 そうですね。雑誌の仕事は面白かったし、編プロ時代と違って、小さくだけれど名前も出してもらえるようになった。経済的にもこれで食べていけるという感触を得たので、このままずっと雑誌ライターでいいと思っていたんです。いつか1冊ぐらい、雑誌に書いたものを集めた本が出せたら幸せだな、ぐらいの気持ちでした。そのときは、女性ものと言いますか、働く女性の悩みとか、結婚しない女性の生き方とか、そういう本だと自分でも思っていたし、たぶん周りもそう見ていたと思います。「AERA」には「現代の肖像」のほかにルポも書いていたんですが、それもそうしたテーマばかりだったし。それが突然、軍人のことを書くことになったわけで、自分でも意外でした。

――女性ライターが軍人のことを書くというのは、ものすごい威力がありますよね。それがみんなの目にとまったんでしょう。

 それまでまったく軍隊や軍人に興味はなかったし、戦記物を読んだこともなかったんですが、いま思えばそれが逆によかったのかもしれません。

――最初の本で大宅壮一ノンフィクション賞をとって、そこでノンフィクション作家という方向性がさだまった感じですかね。

 そうですね。実は、2作目が『狂うひと』になる予定だったんです。2005年の7月に『散るぞ悲しき』が出て、その年の9月には奄美に行っています。そのときはミホさんにお会いできませんでしたが、11月には最初のインタビューをしています。でもいろいろ事情があって、なかなか前に進まなかったんですね。結局、本になったのはそれから11年後でした。
 戦争や昭和史が専門というわけではないので、『散るぞ悲しき』の後、戦争ものはもう書かないつもりだったんですが、硫黄島戦が映画(クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』)になり、栗林中将の役をやることになった渡辺謙さんに頼まれて少し協力をしました。その後、映画が公開されて、硫黄島のことや栗林中将のことが知られるようになると、情報がいろいろ集まってくるようになったんです。この本のここに出てくるこの人とは知り合いです、とか、となりの父島では同じ時期にもっと悲惨なできごとがあったことを知っていますか、とか。中には歴史的に重要なのにそれまで知られていなかったことなどもあって、取材をするうちに、芋づる式に、書きたいこと、調べてみたいことが増えていって、引き続き戦争ものを書くことになりました。

――『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(角川文庫)、『昭和の遺書―55人の魂の記録』(文春新書)、『昭和二十年夏、女たちの戦争』(角川文庫)、本当に戦争の話ばかりですね。

 これはね、みんなつながっているんです。たとえば『昭和二十年夏、僕は兵士だった』は、若い兵隊だった人たちを取材した本ですが、最初のきっかけは、三木武夫元首相の夫人、三木睦子さんにお会いしたことでした。この方のお兄さんは硫黄島で亡くなっているんですね。で、『散るぞ悲しき』が出た後、雑誌の仕事で話を聞きに行ったんです。そうしたら、私が渡した『散るぞ悲しき』の表紙の栗林中将の顔写真をごらんになって、「偉い軍人さんはこうやって記録も残りますけれど、私の兄のような若い人のことは何もわかりませんし、何も残りません」とおっしゃった。その言葉、今もはっきり覚えています。私にとって重たい言葉だったんですね。ああその通りだ、と思いました。
 若い士官や兵士のことは『散るぞ悲しき』で書いてはいるんです。私なりに誠意をもって書いたつもりなんですが、その他大勢みたいになってしまっていたかもしれないな、と。それでまず、三木睦子さんのお兄さんが、いつ、どこで、どのように亡くなったかを調べました。そうしたらかなりくわしいところまで分かったんですね。
 それをきっかけに、まずは硫黄島で亡くなった若い士官のことを調べて書きました。それは、『硫黄島 栗林中将の最期』(文春文庫)の中に入っています。
 私は、硫黄島という、大勢が悲惨な死に方をした島の話を書いてデビューして、賞まで貰ってしまったことに、複雑な気持ちがあります。死者を踏み台にして作家になった、みたいな思いが正直あるんです。硫黄島にはまだ地下に1万柱以上の遺骨が埋まっているんですね。本を出す前、最初に取材に行ったとき、そこを歩くことにおそれのようなものを感じました。それは「怖れ」であり「畏れ」です。そのときから、硫黄島の死者とどうつきあっていけばいいか、というのが、私の後半生のテーマになりました。これからは、自分の人生の中に、死者たちの居場所を作らないといけない、と思ったんです。
 そんなときに出会ったのが、俳人の金子兜太さんの言葉でした。「クロワッサン」(マガジンハウス)という雑誌を読んでいたら、健康法のページで、金子さんが「立禅」をしている、と話していたんです。立禅というのは、金子さんの造語で、朝起きたら立ったまま目を閉じて気持ちを集中する時間を持つ。そのとき、気が散らないように、身近な亡くなった人の名前と顔を百人思い出す、というんですね。その半分ぐらいは戦争で死んだ人だと金子さんは語っていました。金子さんは海軍の士官として戦争末期をトラック諸島で過ごしています。そのとき、部下を大勢亡くしたそうです。その記事を読んで、ああ、金子さんは、こうやって亡くなった人といまもつきあっているのか、こういう形で死者を自分のうちに住まわせているのか、と思いました。で、この方の話を聞いてみたいと思ったんです。
 依頼の電話をしたら、じゃあうちに来なさいと言ってくださって。そこで伺った話は、それまでの私の戦争観みたいなものを覆すものでした。そこから、青春時代を兵士として生きた人たちへの取材が始まったんです。それは何よりもまず私自身にとって必要な取材でした。そうして生まれたのが『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という本ですが、『散るぞ悲しき』でデビューしてからこの本が出るまでは、4年かかっています。
 そうして『昭和二十年夏、僕は兵士だった』を書き上げたら、じゃあこんどは、女の人はどうしていたか、ということになって。それまで私の本に出てきた女性って、軍人の妻や母親、娘といった人たちばかりだった。じゃあ独身女性たちはどうしていたんだろうと思って、戦時中に東京で働いていた女性たちを取材しました。そのころ島尾ミホさんの取材もスタートしていたんですが、彼女たちはミホさんの同世代の人たちです。終戦のときに20代で、戦争によって大きく運命が変わった女性たちですね。

――なるほど、ちゃんとつながっているんですね。

 ノンフィクションは、取材した相手から影響を受けて次のテーマに繋がったり、自分自身が書いたものに「次はこれをやれ」と言われるようなところがありますね。


◆海辺の生と死/17文字の謎/ふたつの日記の秘密

――ずっと戦争の話をやっていた間も、『狂うひと』の取材は続けていたんですよね。

 島尾敏雄とミホは、戦争がなければ出会わなかった二人ですからね。ご存じない人もいるかと思いますが、私小説の名作と言われる『死の棘』を書いた島尾敏雄は、戦時中、特攻隊長だった人です。九州大学を繰り上げ卒業して、海軍予備学生になった。海軍予備学生というのは徴兵ではなく志願です。軍隊には予備役というのがありまして、訓練を受けてから、平時はふつうに仕事や学業をやって、戦争が始まったら行く、という人たちのことです。島尾さんの場合、予備学生になった時はすでに戦時中でしたから、訓練期間を終えるとすぐに戦争に行くわけです。
 島尾さんは文学青年で、いわゆる「文弱の徒」であったと自分で書いています。集団が苦手だから陸軍には耐えられないと思って、海軍で飛行機乗りになれば、団体行動をせずに済むと思ったというんですね。それで海軍予備学生になったんですが、飛行科ではなく兵科というところに行きます。そして、「震洋」という特攻艇の部隊に配属されるんです。「震洋」は戦争末期の昭和19年に開発された特攻兵器で、ベニヤでできた一人乗りのボートです。へさきに爆薬が仕込まれていて、敵の船に体当たりします。島尾さんは、1年間訓練を受けただけで、180人余りを率いる隊長になってしまうんですね。それで、鹿児島県の奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)という小さな島の基地に赴任して、旧家のお嬢さんだったミホさんと恋愛関係になるわけです。
 これがたいへんドラマチックで、昭和20年の8月13日に、特攻戦が下令されるんですね。すでに恋仲になっていたミホさんのところに、島尾さんの部下が「隊長が出撃します」と知らせにきてくれて、ミホさんは喪服を着て、ふところに島尾さんからもらった短剣を忍ばせて、島尾隊の近くの海岸まで行きます。島尾さんが出撃していくのを見届けたら、そこでのどを突いて、海に飛び込んで死のうと思ったんです。一晩中、海岸に座って待つんですが、その日は出撃がなかった。次の14日の夜にまた海岸で待っていたんですが、その日も出撃はなくて、翌日、終戦になるんです。
 ぎりぎりのところで死をまぬがれた二人は、戦後に結婚します。それから9年後に起こるのが『死の棘』の事件、つまり、他の女性との情事を記した夫の日記を妻が見て狂乱するという出来事です。あの小説の背景には戦争の影があって、私はひとつの戦争文学だと思っています。

――なるほど戦争文学と捉えるのは面白いです。それにしても、『死の棘』事件です。夫の日記を読んだ妻が半狂乱になるくだりが凄いですね。「その晩、私は野獣に戻った。夫の日記に書かれた、たった1行の17文字を見たとき、突然、ウオー、ウオーとライオンの咆哮が喉の奥からほとばしり、身体じゅうに炎に焼かれるような熱気が走り、毛髪は逆立ち、四つんばいになって私は部屋の中を駆け巡った」。ここから、夫婦の地獄が始まるんです。ロマンティックだった夫婦の愛が地獄に転換する。夫の浮気から妻ミホが狂い、その看病をするんです。三日三晩、寝ないで攻撃されたりして、あげくに夫の島尾敏雄のほうも神経がまいって、ふたりで精神病院に入院してしまうんです。
 島尾敏雄の作品には、夫婦の愛を描いたものがいっぱいあるんですが、それらもこの『狂うひと』にまとめられているんですね。
 では、ここで出てくる17文字というのは何か。これが、『狂うひと』ができるきっかけになっている。島尾敏雄が浮気した相手は誰なのか、というところまで探っていくんです。これは文学上のテーマであると同時に、ある意味で下世話な興味も満たしてくれます。探っていく過程がとても面白い。次々に関係者にインタビューしていくんですが、みんなしゃべるんですよね(笑)。

 はい、みなさんしゃべってくれました。そして話を聞くごとに、ひとつずつ謎が解けていくんです。そしてさらに、新しい謎が増えていく。ほんとうにスリリングでしたね。ありがたかったのは、しゃべった人がみんな、次の人を紹介してくれたことです。『死の棘』という作品は、純文学としてはたいへん売れましたし、話題になったんですね。小栗康平監督で映画にもなって(1990年)、松坂慶子さんがミホさんを演じました。だから有名な話なんですが、主人公の浮気相手の女性がどんな人なのか、小説にはまったく書かれていないんです。歳もわからないし、どのような境遇なのかもわからないし、どんな顔でどんな職業なのか、いっさい出てこないんですね。これは私小説で、主人公は島尾さん自身だしモデルは実在しているということは知られています。有名な私小説はたいてい、モデルが特定されているんですが、『死の棘』に限っては、誰も何も知らない。なぜかこれまでまったく、何の情報もなかったんです。

――その浮気相手が誰だったのか、ということを探りつつ、当時の日本文学の状況もきちっと再現してくれていて、当時の雰囲気というか、みんな文学を生きていたんだな、という匂いが伝わってきます。

 その女性も、文学仲間だったんですね。島尾さんや安部公房さんたちが作っていた「現在の会」にいた女性でした。彼らの関係を調べることで、昭和20年代後半の若い文学者たちの間にあった独特の空気が見えてきました。

――この夫婦愛はそれからもずっと続いていくんですが、島尾敏雄はずっと日記を書くんです。その日記には、妻ミホのチェックが入るんですが、いろいろごまかしというか(笑)書かない部分があって、そこを関係者の証言で補っていくんです。

 実は、島尾さんは日記を2種類書いていたんです。彼は記録魔で、小学1年生から亡くなるまでの日記がぜんぶ残っているんですけど、妻に日記を見られたことからたいへんな修羅場になったというのに、それからも日記を書き続けるんですね。その修羅場になる前から、妻に見せてもいい日記と、見られたら困る日記を2種類書いていたこともわかりました。取材の過程でボロボロになった日記の残骸が出てきたりして、島尾さんの「書く」ということに対する執着のすごさを感じました。島尾さんの小説は、その多くが、自分の日記をもとにしています。みなさんも実生活で大きな出来事があったら、メモしておいて小説のネタにしようと思うことがあるかもしれませんが、島尾さんはそれを徹底してやっていたんですね。

――で、島尾敏雄が亡くなってから『「死の棘」日記』が出ますね。これは当然、島尾敏雄が書いたと思うんですけど、活字になる前の段階で、島尾ミホが直しているんですね。

 そうなんです。1年ちょっとの間の日記をミホさんがすべて手で原稿用紙に書き写して、それで入稿しているんですが、削除したり、表現を微妙に変えているところがあります。大きく改ざんしているわけではなくて、ほとんどは原文の通りなんですが、ちょっと変えてある。その「ちょっと」の部分に、この夫婦の関係性や、ミホさんの人生の謎を解く鍵があると私は考えていて、『狂うひと』ではそれを詳細に比較しています。

◆喪服のポートレート/「作家としての才能」とは?/『藤十郎の恋』

――最初から、島尾ミホの話を書こうとしていたんですか?

 そうなんです。島尾敏雄という作家には、実はそれほど興味はありませんでした。『狂うひと』にも書きましたけど、きっかけになったのは、ミホさんの写真だったんです。いろいろな作家のポートレートを集めた写真集の中に、ミホさんの写真があったんですが、彼女の姿には何か磁力のようなものがありました。南の島の、アダンとかソテツが茂っている海岸に、真っ黒なロングドレスを着て、ベールをかぶった老女が立っている。それは喪服なんですね。ミホさんは夫が亡くなってから自分が死ぬまで、21年間ずっと人前では喪服を着ていた。カトリックなので洋装で、レースの手袋をはめて、真珠のネックレスをつけて。
 説明を読んだら、『死の棘』のモデルになった島尾敏雄の妻で、しかも自分も作家として小説を書いているという。作品は少なくて、刊行されているのは『海辺の生と死』『祭り裏』の2冊だけでしたが、取り寄せて読んでみたら、これがもうびっくりするほどすばらしい小説でした。島尾敏雄よりこの人のほうがいい作家だ、と思ったぐらいです。

――三浦しをんさんとの対談でも、そうおっしゃっていましたね。

 ええ。彼女も島尾ミホの小説はすごい、すばらしいと絶賛していました。しをんさんは学生時代にすでに『海辺の生と死』を読んでいたそうです。さすが!

――取材を始めたのに、中断していたというのは、島尾ミホさん側の事情ですか。

 ええ。全部で4回インタビューしたんですけど、結果的に最後になったインタビューのとき、私がミホさんの逆鱗にふれてしまったんですね。そのあと新潮社に電話がかかってきて、これ以降の取材は遠慮したいと言われたんです。
 断られた理由は、ここで話すと長くなるので本を読んでいただきたいんですが(笑)、その時点で私にはひとつ、思い当たるところがあったんですね。で、これは仕方ないかな、とあきらめたんです。その1年後にミホさんが亡くなられて、そのままになっていたんですが、それから2年後に、島尾さんの浮気相手の女性が誰だったのか、たまたまわかってしまった。その経緯も本に書きましたので省略しますけど、それがきっかけで取材を再開しました。

◆「きれいごとにはしないでくださいね」/「聖なる狂気」への違和感/筆をゆるめるのは失礼

 ミホさんにインタビューしたときから、愛人の女性のことがわからないと、ミホさんのことも本当にはわからないんじゃないかという気持ちが私の中にはあったんです。敏雄とミホの関係を、私は〈書く-書かれる〉の戦いだったと思っているんですが、島尾さんによって書かれた女ということでいえば、その愛人もミホさんと同じですよね。それまで隠されていた三角形のもう一つの頂点が見えた時、これは書ける、書きたい、と思いました。それで、島尾ご夫妻の息子さんである、写真家の島尾伸三さんに会いに行ったんです。ミホさんから取材を途中で断られた経緯もぜんぶ正直に話して、それでもやっぱりミホさんのことを書きたいんです、とお願いしたら「わかりました、書いていいですよ。そのかわり、きれいごとにはしないでくださいね」と言われました。

――これは驚きですね。というか立派ですね。ノンフィクションってどうしてもプライバシーにかかわるものですから、遺族はそういう問題をいやがる。それなのに「きれいごとにはしないでくださいね」というのは、すごいですよ。

 知り合いのノンフィクションライターに聞いても、そんな人はひとりもいなくて、遺族はみんな、きれいごとにしてほしいわけですよ。そりゃあそうですよね。でも伸三さんは違いました。何度も奄美にご一緒させてもらって、資料を全部見せていただいて。最初にお会いして書き上がるまでには、7年くらいかかったと思いますが、何をどう書いてもいいという態度は、最後まで変わりませんでした。
 伸三さんは、日本の伝記や評伝はきれいごとばかりだとおっしゃるんです。海外の伝記だと、有名人でも、あらゆることが書いてある。ああでないとつまらない、と。両親が伝説的なカップルとして語られてきて、ミホさんの狂乱も「聖なる狂気」みたいにいわれてきたことに違和感があったのかもしれません。

――子どもたちは、両親のすさまじい争いを見ているから、本当の姿をもっと書いてほしいと思うんでしょうね。海外では、遺族が認めないような伝記も出ているんですよね。ところが、日本ではそういうものは出ない。そこが、日本の評伝や伝記の限界なんですよね。いまはやりの言葉でいうと、忖度をして(笑)、なるべくきれいごとにしようと思うんですけど、この『狂うひと』にはそういう忖度がまったくない。

 なぜ途中で取材を止められたかというと、ミホさんには書いてほしくないことがあって、そこに私がふれそうになったからだと思います。たぶん私は、結果的に、ミホさんの書かれたくないことも書いてしまった。でも、ここまで書かないとミホさんの魅力は伝わらないと思ったんです。それに、私はもともと作家としてのミホさんにひかれて会いに行き、いまも作家として尊敬している。だから、筆をゆるめてきれいごとにしてしまったら、作家としてのミホさんに対して失礼だと思うんです。

――ちょっと話は変わりますが、河野裕子(かわのゆうこ)という、乳がんで亡くなった有名な歌人がいます。僕の大好きな歌人なのですが、亡くなる前に、やはり歌人の夫、永田和宏のことをきびしく責めていたことがありました。永田和宏が本に書いたのですが(『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年』新潮文庫)、闘病中は、睡眠薬をウイスキーで流し込むような生活をしていて、ある授賞式のときには、ホテルのロビーから、タクシーの車内から、エレベーターの中までずっと夫のことをなじり続けていたそうです。最後には、やはり歌人である娘の永田紅(こう)さんが、たえかねてエレベーターの中でお母さんの頬を張ってしまう。そこで河野裕子はぱっと目が覚めて、にこやかに授賞式に行くんです。そういうところはね、これは永田和宏も書きたくなかったんだけど、でも書かないと、彼女に対して失礼だ、と言っています。素晴らしい歌人一家の、幸福を絵に描いたような家族愛・夫婦愛があるかと思ったら、闘病中はものすごい地獄だったんですね。

 永田さんのその本は、私も読みました。もう夢中になって。すごい作品ですよね。永田さんは文中で、当時、『死の棘』ほど身につまされた小説はなかったと書いていらっしゃいます。私は、永田さんがここまで書いたからこそ、河野さんの光り輝くような魅力が作品の中に定着されたのだと思いました。私がミホさんを書く上でも、励まされたというか、この本によって覚悟が決まったようなところがあります。

◆エゴサーチのすすめ/硬い内容と工夫した構成/私にもあった、作家の業

――Amazonレビューとかはご覧になりますか。星がかなり多いんじゃないですか(笑)。

 見ます。きちんと読み込んだレビューを書いてくれる人が多いですから。最近私は「エゴサーチ」ということをおぼえまして(笑)。読者の方が私の本について書いてくれたことを検索して読めるので、励みになりますね。驚くほど深いレビューに行きあたることがあって、レベルの高さにうならされることもあります。いいことが書いてあったら印刷して、落ち込んだときはそれを読んで元気になったりしています(笑)。

――三浦しをんさんはね、悪口がいっぱい書いてあるのを、わざわざ進んで見にいくそうです(笑)。あの人のファイトはすごいですね。
 ネットには悪口も書いてあると思いますが、そういうのを見るとへこみせんか。

 それはへこみます、すごく(笑)。でも励まされることのほうが多いですね。すごく励まされたのはですね、この本って厚いし内容は硬いし値段は高いしで、研究者の人は新事実がたくさん出てくるので買ってくれるかもしれないけれど、一般の読者はあまり手に取ってくれないんじゃないかと思っていたんですね。ところが買って読んでくださる人がこんなにいて、しかも「ああ、ここまで読んでくれたんだ。わかってもらえたんだ」と感激してしまうような深い書評がどんどんネットに上がってくる。それが本当にうれしくて。確かに数はそんなに売れないかもしれないけど、こういう本を読んでくれる読者が日本にまだいる、ということがわかったのは、これから書いていく上で非常に大きいです。

――この本は去年に刊行されてから各所で絶賛されていますが、今年に入ってからも、角田光代さんが私的感想文として文芸誌にすごい書評を書かれていましたね。あれはご本人が勝手に書かれたものなんですか。

 角田さんとは、いちどパーティかなにかでご挨拶させていただいたくらいで、ほとんどお話ししたことはないんです。あんなふうに読んでくださって、本当に感動しましたし、ありがたかったです。

――本当に面白いですよね。面白く読ませるためのストーリーテリングなども、だいぶ工夫されたんじゃないですか。

 基本的には地味な話なのと、物語的にするとあまりに私の見方が出すぎてしまってミホさんに失礼だと思うので、彼女が書いた一次資料をそのまま引用するようにしました。かなり厳密に分けたので、下手をすると論文のようになって読みづらいかと思いまして、構成にはけっこう気を遣いました。
 私は雑誌ライターだったので、最初の20行くらいで読んでもらえるかどうかが決まると思っているところがありまして。読者は厳しいですから、各章の最初はひきつけるようにしよう、とか、章の終わり方は、続きが読みたくなるようにしようとか、そういう工夫はしましたね。

――みなさんの中には島尾敏雄のことをごぞんじない人もいるかもしれませんが、『死の棘』は本当に名作ですし、島尾は読んでおくべき作家です。その島尾文学の背景のみならず、戦後文学が時代的に持っていた、どうしても書かざるを得ないテーマを、作家がどうとらえて、何が書けて何が書けなかったのか、梯さんはぜんぶ書いている。これは本当にすばらしいことです。

 この本は、思いがけずたくさんの小説家の方たちが書評や感想を書いてくれたんですが、それは、「ものを書くとはどういうことか」が大きなテーマになっているからではないかと思います。この夫婦の特異なところは、〈書く-書かれる〉という関係性で、それは闘いであり、同時に愛のかたちでもあった。
 島尾敏雄は、日記をわざとミホさんに見せたんですね、たぶん。その反応を見て、小説にしようと思ったわけです。そこまでしてしまう、作家っていったい何なのか。目を背けたくなるような、作家の業がそこにはあるわけですが、そんな島尾さんとミホさんのことを、ここまで暴いて書いてしまった私も、同じ業をもっているわけです。この本を書くことで、物書きの非情さを、私自身がつきつけられる経験をしました。
 小説を書いている人たちがこの夫婦の物語に反応したのも、日常生活や家族を犠牲にしてでも書きたい、そのくらいでないと作家とはいえない、という時代を描いたからだと思います。それはいまでも、書き手ならみんなどこかに持っているんですよね。人間がものを書いて生きていくとはどういうことかを、見せつけられる思いがするのではないでしょうか。
 
――ではそろそろ時間となりましたが、最後に、今後の予定についてお聞かせください。

 石垣りんさんという女性の詩人がいまして、この人の評伝を書くために、いま取材をしています。島尾ミホさんと同世代なんですが、石垣さんは結婚もせず、東京で銀行員として働きながら詩をつくって、ひとりで生きてひとりで死んでいった。実は私も一度も結婚していなくて、そのことを後悔したことはないんですが、夜中に彼女の詩を読むと、泣いてしまうことがあります。ぜんぜんセンチメンタルではなくて、きびしい詩なんですけどね。最近、岩波文庫から「石垣りん詩集」が出ましたので、みなさんもぜひ読んでみてください。

――石垣りんはすばらしい詩人ですから、その評伝もとても楽しみです。みなさんもぜひご期待ください。今日は本当にありがとうございました。
(場内大拍手)

【講師プロフィール】
◆梯久美子(かけはし・くみこ)氏

1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部国文学科卒業後、編集者を経て文筆業に。2006年「散るぞ悲しき硫黄島総指揮官・栗林忠道」で第37回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『昭和二十年夏、女たちの戦争』『硫黄島栗林中将の最期』『百年の手紙―日本人が遺した言葉』など。17年『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』で第68回読売文学賞(評論・伝記賞)と第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。14年から3年間大宅壮一ノンフィクション賞選考委員。潮アジア太平洋ノンフィクション賞選考委員。

●狂う人―「死の棘」の妻・島尾ミホ (新潮社)
※第68回読売文学賞(評論・伝記賞)
 第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4104774022/

●散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道(新潮文庫)
※第37回大宅壮一ノンフィクション賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/410135281X/

●昭和二十年夏、女たちの戦争  (角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041003822/

●昭和二十年夏、僕は兵士だった  (角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4043944497/

●昭和二十年夏、子供たちが見た戦争  (角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041008808/

●硫黄島 栗林中将の最後
https://www.amazon.co.jp//dp/4166607618/

●百年の手紙―日本人が遺した言葉  (岩波新書)  
https://www.amazon.co.jp//dp/4004314089/

●妻への祈り 島尾敏雄作品集 島尾敏雄(著) 梯久美子(編集)
(中公文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4122063035/

●死の棘  島尾敏雄 (新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4101164037/

●海辺の生と死  島尾ミホ(著) (中公文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4122058163/

●世紀のラブレター (新潮新書)
https://www.amazon.co.jp//dp/4106102722/

●愛の顚末―純愛とスキャンダルの文学史
https://www.amazon.co.jp//dp/4163903607/

●カラー版 廃線紀行―もう一つの鉄道旅(中公新書)
https://www.amazon.co.jp//dp/4121023315/

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