「作品を通して一番書きたいところは、読者のみなさんに共感されるようにしてください。いいネタだと思った情報でも、そのためには捨てることも必要です」

 

2月の講師には、中島京子氏をお迎えした。

東京都出身。東京女子大学文理学部史学科卒。出版社勤務、フリーライターを経て、2003年『FUTON』で小説家デビュー。

2010年、『小さいおうち』で第143回直木三十五賞受賞。2014年、『妻が椎茸だったころ』で第42回泉鏡花文学賞受賞。2015年には、『かたづの!』で第3回河合隼雄物語賞・第4回歴史時代作家クラブ作品賞・第28回柴田錬三郎賞をそれぞれ受賞、『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞している。

本講座での登壇は、2010年以来6年ぶり2度目。

講座の前半は、受講生から提出されたテキストへの講評を行った。今回のテキストは、小説が4本。

・座光寺修美『スーパームーン』(10枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049348

・古間惠一『蔵王石(Zao Stone)』(22枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049391

・藤堂まり『絵画教室』(50枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049404

・吉岡多恵子『顔面屋「コモ・エスタ」』(78枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049366

 

◆座光寺修美『スーパームーン』(10枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049348

八十歳でひとり暮らしをしている恵は、好きな絵を描いたり、俳句を詠んだり、文学講座を受けるため隣の県まで出かけたりしている。

ある日、隣の県にあるなじみのヘアサロンを訪れ、マスターに「この町のショッピングセンターで息子が働いているんです」と言った恵は、マスターといっしょに息子の仕事場を訪ねることになる。スーパームーンが輝く夕暮れ、恵は二年ぶりに息子と対面することになるが……。

・池上氏の講評
新人賞に年齢は関係ないとよく言われますが、出版社によりますけれど、実際にはあるんです。でも昔に比べると厳しくはない。20年前は60歳を過ぎた人に新人賞をあげなくてもいいだろうという気分が支配的でしたが、いまでは60代半ばでもよくなってきた。みんな長生きになりましたし、本をよく読む年齢層も、上のほうになってきましたから。しかしこの講座では、書いた人の年齢は考慮しない。いやむしろ年配の人たちの文章を積極的に選んでいる傾向がある。若い人にはない個性、文章がもつ人生の匂いといったものが滲み出ているからです。

この作品もそう。座光寺さんは私小説的に、私生活の問題を乾いたタッチで、優しく書いています。人生経験が、行間から静かに伝わってくるような温かい文章ですが、でも裏には寂しさが貼りついている。その寂しさを、小説ではラスト、スーパームーンが明るく静かに照らす。息子とうまくいかない関係を丁寧に捉えている。

ただ問題もある。最後の一行ですね。「たずねきて 言葉少なく スーパームーン」という俳句で押さえてある。これは説明しすぎ。「夜空に、輝く月が見えた。どこまでも満月は車と並行してついてきた」で、切ってしまっていい。俳句にはある種の詩情があるが、作られた詩情があって鼻につく。説明しすぎです。

でも、淡々とした主人公の生活が描かれていて、座光寺さんがこれまであまり書いてこなかった、息子さんとの関係もさらりと書いている。私小説として、新たな境地に来たと思います。もっとこういうものを書いてください。

・中島氏の講評
とても面白く拝読いたしました。独特の雰囲気がある作品で、とても面白かったです。

ただ、ちょっとエッセイよりな感じがして、小説としてお書きになっているのかどうか、というのがひとつ疑問に思ったんですけど、私小説的な書き方というのもありますので、そこは捉え方がいろいろあるでしょう。

小説として読んだ場合、すごく面白いのは、本当によく抑えた筆致で書いているけど、息子のことがすごく気になるわけですよね。だから、本当はヘアサロンも、腕がいいからここを選んでいるとか書いてはあるけど、本当は息子の住んでいるところに行きたいからここに通っているんだろうな、というふうに、小説としては読めますよね。

そして、息子と会っても、何も楽しいことがなかったわけでしょう。でも、ヘアサロンのマスターは話も聞いてくれるし、何か息子の代替物のような存在であるわけですよね。だから、講座で知り合った友だちであろうとも、取られてしまったら嫌なわけですよ。でもはっきりとは書いていなくて、うっすらと伝わってくる程度の書き方になっている。でもそれが冒頭に出てくるあたりは、本当はそうとう嫌なんだろうなという感じも伝わってきます。それがテクニックなのかどうか、わからないんですが、たぶん自然にかもし出されているものなんだろうと思います。心情としてはよく伝わってくるし、ご自分のことを良く書こうともされていないのがいいです。

そして「スーパームーン」というのも、たしかに大きくて綺麗でハッとさせられるものなんだけど、ここで書かれているのは「だから何なんだ」というようなスーパームーンですよね。その辺の、そこはかとないおかしさみたいなものが、全体に漂っているところが魅力だと思います。

だから、エッセイ的な魅力なのかもしれないけど、小説としてはもっと整理する必要があるかもしれない。最後に俳句でしめる、というのはエッセイ的な書き方だと思います。この俳句は滑稽ないい味を出していますが、小説にするためには、いろいろバッサリ整理していかないといけない。けれども、そうしていったときに、この文章の味わいがどこまで生きるか、というのは難しいところだと思います。

私が書くとしたら、この狙っているかどうか微妙なユーモアを活かしつつ小説にする、というのは難しいので、このままでいいんじゃない、という気もするけど、整理するとしたら……そうですね、もう少し長くなって、息子との関係を描いたりしますかね。

それから、ご自分のことも文中にけっこう書かれていますよね。「興奮しやすいのだ。たとえば、ひとに親切にされると、すっかり気分をよくして、過分な反応をしてしまったりする」というふうに。でも小説だと、こういう説明的な書き方ではなくて、親切にされたときに過剰な反応をしてしまう恵さんの姿を描くことによって、読者にその人物像が伝わります。そうすると、最初のほうに書いてある、説明されていない「彼女」のことなども、効いてきます。私が小説にするなら、そういう書き方をすると思います。

◆古間惠一『蔵王石 Zao Stone 』(22枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049391

主人公の奈都紀は、勤めていたアパレルメーカーを会社の事情で退職してロンドンで語学留学していたが、夢半ばで実家の墓石を主に取り扱う家業の石材店に戻ることになった。

奈都紀には不本意な帰国であったが、それでも自分の夢を繋ぎとめようとネットを利用した石のレリーフ販売を始める。その折、元有名なケニア人マラソンランナーのムワンギから左片脚だけのレリーフを作ってくれという不思議な注文が入ってきた。彼女はムワンギとのメールでの注文の遣り取りをしながら、知らずして自分の挫折と重なるかのようにワンギの挫折に寄り添いながら、彼の石に込める意図を知ることになる。

・池上氏の講評
蔵王石というものに、人生の葛藤を象徴させようとしている意図があったのかなと思いますが、そこに至るまでを全部、説明で書いてしまっています。会話で説明して、また、会話で説明して。全部そこに話を持っていってしまう。これは後の作品にも言えることですが、会話で簡単に説明して謎が解かれるというのはね、面白くないんです。綺麗に謎が解かれるのはいいんですよ。でも、綺麗に解かれるというのは軽い謎なんですよ。2時間サスペンスみたいに、すいすい謎が解かれていく。そこで解かれる謎というのは、ぜんぜん大したことないんです。苦労がないから。

意外と思われるかもしれませんが、実は、ミステリで大事なのは、停滞なんです。どこまでいってもわからない、どこまでいっても調べられない。苦労して苦労して、調べて調べて、やっとわかる。そこで初めて、謎に重さが出てくる。時には、謎が解かれないほうが面白いこともある。純文学ではとくに、解かれない謎のほうが光るんですね。謎が解かれてしまって、動機なんか説明されてしまうと、途端につまらなくなる作品がいっぱいありますよね。

それと同じように、主人公が何もしないのに説明されてしまうのは、つまらない。主人公が汗をかいて調べていく。説明されて「そうでしたか」というのでは、話はただ流れていくだけで、読者も主人公も何も苦労しない。そういう話はね、底が浅くなってしまうんです。やっぱり、汗をかいて、行動する主人公を書かないといけないと思います。

・中島氏の講評
池上さんが、作者に「これは何を書きたかったんですか」とすごい直球の質問をされるので、やっぱり20年も講師をやってる人は違うなと思ったんですが(笑)、これはたしかに説明されないとわからないなというところがありました。お書きになりたいものがいっぱいあるのに、22枚という分量になってしまったから、あらすじ的な書き方になってしまったんですね。お書きになりたいことがあって、それだけが進んでいってしまった、という感じがしました。

小説を読むときの、余裕というか幅というか、読者が楽しむ部分がちょっと少なくなってしまった。だから、これはもっと長く書かれるべき話なんだと思います。主人公の留学体験とか、お父さんとの関係とかも、もっと長く書けるし、マラソン選手の話だって、もっと長く書けます。そうしないと、お書きになったご本人には、ご自分の中にドラマが全部あるからわかるでしょうけど、読むほうにはわからないんですよね。ちょっとそこで残念な感じがしました。

それから、誤字脱字が多いというのも気になります。推敲が充分でないというか。犬のレリーフをめぐる台詞のやりとりにも、誤字があるうえに、説明的な言葉で断言してしまっていると、何だかよくわからない、消化できないままに残ってしまいます。

それに、主人公がクライアントに無断で、レリーフに傷を入れてしまっていいのかという問題とか、それがすぐ後に「それでいいんです」と肯定されてしまうところとか、何だか主人公が頭の中で作ったストーリーがそのまま「それでOKです」と進んでいくような、未消化感みたいなものを持ってしまうんですね。だから、もっと長く、もっと丁寧にお書きになったほうがいいのではないでしょうか。お書きになりたいことがたくさんあるだけに。

◆藤堂まり『絵画教室』(50枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049404

スイスのフランス語圏で育ったアデールは、交通事故で両親を亡くし、ドイツ語圏に住む祖母に引き取られた。五歳の彼女は、現実を受け止めきれず、耳が聞こえなくなってしまった。一方、六歳のダミアンも、自分の不注意から交通事故で両親を亡くした。彼は、良心の呵責から、言葉を話せなくなってしまった。

二人は、問題を抱えた子供たちのための絵画教室で知り合い、心を開いていく。ともに成長して、アデールはダミアンに恋心を伝えるが、彼は、女の子は愛せないと告白する。

数年後、いつまでも消えない噂に苦しんでいた彼が、死んだとの報せが受け、彼女は失意する。しかし、絵を描くことがアデールに苦しみを乗り越える力を与え、彼女は未来へ目を向ける。

・池上氏の講評

これが難しいのは、注釈つきでないとわからない部分がある。一人も日本人が出てこない海外の話。でもね、日本で書いたものはまず最初に日本人が読んで、そこで理解されないと、海外に翻訳されたりはしないんですよ。

昨日は仙台で、姉妹講座の「せんだい文学塾」が行なわれたのですが、講師としてお招きした中村文則さんが面白いことを言ったんです。「僕は今日のテキストを、1回しか読まないでここに来ました。小説というのは、1回しか読まれないものなんです。1回だけ読まれて、良いか悪いか判断される。だから、何回も読んでもらえると思って書かないでください」と。至言だと思います。

僕は昔から海外小説はたくさん読んでいるから、この作品もわかりますし、オマージュを捧げた対象も背景も理解できる。でも一般読者は難しいだろうと思う。数十年にわたる長いスパンの話を、50枚に収めているのも無理がある。少年時代の葛藤など、どこかのワンシーンだけでもいいのではないかと思います。

ずっと少年たちの時間を追っていって、片方が死んでしまうというのも、物語の結末としてはすごく座りがいいんですが、逆に「定型だな」と思わせてしまうこともある。だから、定型を使わずに、どうやって虐待とか差別とか人間の悲しみを出せるか。この小説で一番いいのは、傷ついた少年と少女が、絵画で色を使うことに目覚めて、再生していくところです。ここで50枚使ったほうがよかったのではないかと思います。その後の、虐げられた子供たちの性的な差別とか、同性愛傾向は、展開を匂わせるだけで終わらせたほうがよかった。いろいろ書きすぎてしまっています。

あとはね、文末に注釈がいっぱいついてますが、これはダメです。そんなのつけてもみんなちゃんと読んでくれませんから。注釈はつけないで、読んでちゃんとわかるように書いたほうが、絶対にいいです。

・中島氏の講評
とても雰囲気のある作品で、私は楽しめました。とくに絵画教室で、子供たちが絵を描いていくところは、本当に読んでいて癒される感じで、とてもよかったですね。そこだけで50枚にして、という池上さんの意見もわかりますね。だって、それだけでもかなり大きな話じゃないですか。そんな幼い子供が、そんなひどい体験をして、それが癒されるというのも大きなドラマですから。なので、その後の、ダミアンの話がちょっと付け足しっぽく感じてしまって。書かれてないな、って思いました。ここを書くのであれば、幼年時代と思春期の、子供たちが変化していくところをですね、書くべきかどうか以前に、読んでみたいと思いました。少年少女の絵画教室のところがよかったので、後半も同じようなボリュームで、同じような質量で書かれたらどんなにすごくなっただろう、と思いますし、そこには当然、いじめとか生々しいものを、藤堂さんがイヤだなと思う感じでなく入れるためには、書き手はとても工夫しなければいけないと思うんです。でも、それをなさった作品を読んでみたいな、と思いました。

あと、冒頭のスイス連邦についての説明が、本当にただ説明的なんですね。とても興味深い場所を舞台に選ばれていて、「クルーユブール」というとてもいい名前の町だから、これをタイトルにしてもよかったかなと思います。これだけだとわからないから、翻訳をつける必要はあるかもしれないけど。

でも、スイスにはいろんな言語といろんな宗教がある、という設定は、冒頭にガツンと出てきたわりには、それが作中で充分に活かされていたかな、というところがあって。小さい子供の言葉が出なくなってしまう話なわけですから、抑圧されてしまったほうの言語が、どうなってしまうのか。のちに言語が二重になったり三重になったりするのであれば、色彩との関係も面白く書けそうな感じがしますよね。それが、いま一つ伸びきっていないような印象を受けています。

でも、すごく面白かったので、ぜひこれからも書いてみてください。

あと、一個だけ。この男の子は鉄道が大好き、と書いてありますね。これはすごく小さい、つまらない指摘かもしれませんが、ラッセル車の事故で親を死なせてしまった子が、そういう動くものをずっと好きでいられるか、若干疑問に思いました。小さなことですが、私が書くとしたら避けるかもしれない。動物や花の絵ばかり描く子供にして、乗り物は描かない子にするかな、と思いました。

◆吉岡多恵子『顔面屋「コモ・エスタ」』(78枚)
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8049366

ギャラリー「コモ・エスタ」は、故人のデスマスク制作を副業にしている。従業員・敦はある日、依頼を受けて、客の自宅へと向かった。いつもの客層とは違うボロアパートで待っていたのは、妙な三人組の男女。敦は、彼らが見守る中、故人の顏型を取った。

翌週、ギャラリーの前を通りかかった女が、展示中のデスマスクを見て入店してきた。このデスマスクは夫の顔型だといい、夫は死んでなどいないと説明する。

三人組は、彼女の夫の意識を失わせて、アパートに連れて行ったようだった。敦は夫婦の依頼で、三人組の正体を調べることになった。

・池上氏の講評
ミステリ評論家としての感想を言うと、これはあちこちに無理がありますね。麻酔薬の扱いにも疑問がありますし、この展開では、下手な医者にかかったかわいそうな女性の話になってしまいます。それだと貧しい感じになるんですね。また、石膏でデスマスクの型をとるというのも、ちょっと古い。けっこう熱いそうですし、現代なら樹脂を使うやり方もあるんです。

ミステリを題材とする場合、細部をしっかりと調査研究しないと駄目ですからね。それがトリックに関わっているなら、なおさら。新人賞の下読みをつとめる評論家が「こんなの無理だよ。ありえない」と判断した段階で落とされてしまう。

一番いけないのは、失明する女性がこんなに簡単に医療事故を受け容れませんよ。頭にくるし、怒るでしょう。根本的な動機や心情といったものをもっと客観視すること。読者は納得するのかどうかを考えること。作者の都合で話を進めている。だから読者は「こんなはずない」と考えてしまい、読まなくなる。テキストだから読むけど。ここは「そうだよね」「こういうことあるよね」「かわいそうだよね」と、読者を巻き込んで感情移入させないとダメなんです。

吉岡さんはいつも、女性を主人公にして、身体性を持った小説を書く方ですが、今回はちょっと頭の中で作りすぎましたね。そもそも男の主人公の書き方が悪い。下手だね。男が男を見て、「顔がいい」云々は言いませんよ。男はそんなところは見ませんから。吉岡さんは女性を書くと、身体感覚がよく表現されていて非常にうまいし、男性の読者もノックアウトされるのに、男性視点の小説はまずいですね。

大事な話をもう一点。現代のミステリやエンターテイメントはみんなそうですが、職業を描くときにはそこをしっかり書いて、職業小説として徹底させること。あとは、探偵を魅力的に描くこと。この主人公は全然魅力的じゃないですね。特徴をつかんでもっと魅力的に描きましょう。

以上厳しい言い方になりましたが、吉岡さんは充分に書き慣れているし、先日は某賞の最終候補にも残った。期待しているので頑張ってください。

・中島氏の講評
私が読んで最初に思ったのは、だいぶ書き慣れている方かなという印象でした。とても上手な方だなと思ったんです。

私は推理小説が専門ではないんですけど、たしかに細部に疑問はありますが、吉岡さんのお話をうかがうと、まず実際に美容整形の副作用で失明した、という話があって、そこから着想されたとのことですね。たしかにそういう入り方っていうのはあるんですけど、そこにこだわりすぎちゃったんじゃないですかね。それでやるために、美容整形の人を出して、こうしてこうして、というふうに後から作っていった感じがします。でも、失明してしまう女性が、好きだった男のマスクを、手で触れられる形で持っていたい、というその悲しさ、その気持ちが、書きたいことの一番のポイントとしてあるべきだと思うんですね、この作品の場合は。そうすると、失明の原因がどうしても美容整形でなければいけないかというと、そうじゃないかもしれないじゃないですか。

綺麗になりたい、と思って整形して、それで失明した。これはやっぱり怒るだろうし受け入れられないけど、そうじゃなくて、何か受け容れなくてはいけないような事情があって、それで徐々に失明していくことがわかっている、という女の人が計画を考えた、そんな設定だったら、ちょっと違うような気がするんです。

そういうようなところで、一番書きたい、書かなければいけないところを決めて、そこは読者みんなに理解されるようにする。最初に入った「美容整形」という情報は、おそらく「すごくいいネタだ!」と思われたと思うんです。私もそういうことがけっこうあるんです。「これは使える!」と思って書き始めるんだけど、どうしても小説にならない。一個だけ残してあとは捨てる、みたいなことがあるので、それかな、と思いました。

あとは、これだけ書くんだから、もう少し時間を使ったほうがいい。事件があって、それからすぐ見つけて、というふうに急ぐ必要は全然ない題材だと思います。全然変えちゃってもいい、と思うんだな。たとえば、この人がこのデスマスクを持って、それこそこの小説教室20年みたいに、ずっと持ってたっていいじゃないですか。そうやって時間が経ったあとで、誰かが「ああ、あのときのアレか!」と思ってもいいじゃないですか。そういうふうに、時間のタメみたいなのがあると、もう少し読者が「この女の人、かわいそう」と思いやすい気がする。すごくいいものがいっぱいあるのに、全体に急ぎ過ぎている感じがします。ご本人の書くのも急いでいるし、小説の中の時間の流れも、こんなに急がないで書いたほうがいいと思いました。

以上の講座に続き、後半では池上氏の司会のもと、各種の文学賞を受賞した作品の解題や、家庭生活と作品の関係などについて、お話していただきました。その模様は「その人の素顔」にてアップいたします。

【講師プロフィール】
◆中島京子(なかじま・きょうこ)氏
1964年、東京都生まれ。出版社勤務を経てフリーライター。2003年小説『FUTON』を上梓してデビュー。『さよなら、コタツ』『ツアー1989』『平成大家族』の後『小さいおうち』で第143回直木賞受賞。以後『ハブテトル ハブテトラン』(第1回広島本大賞)『妻が椎茸だったころ』(第42回泉鏡花文学賞)『かたづの!』(第3回河合隼雄物語賞&第4回歴史時代作家クラブ賞&第28回柴田錬三郎賞)『長いお別れ』(第10回中央公論文芸賞&第5回日本医療小説大賞)と秀作を世に送り出している。

●『小さいお家』 (文春文庫)※直木賞受賞作品
https://www.amazon.co.jp//dp/4167849011/

●『妻が椎茸だったころ』 (講談社文庫)※泉鏡花文学賞受賞作品
https://www.amazon.co.jp/dp/4062935503/

●『かたづの』※柴田錬三郎賞受賞作品
https://www.amazon.co.jp//dp/4087715701/

●『長いお別れ』 (文藝春秋)※中央公論文芸賞&日本医療小説大賞受賞作品
https://www.amazon.co.jp//dp/4163902651/

●『花桃実桃』 (中公文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4122059739/

●『平成大家族』 (集英社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4087466183/

●『彼女に関する12章』
https://www.amazon.co.jp//dp/4120048446/

●『のろのろ歩け』 (文春文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4167903202/

●『イトウの恋』 (講談社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062760037/

●『ハブテトル ハブテトラン』 (ポプラ文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4591120961/

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