今回は、村上春樹氏の文章を参考に比喩表現をもっと押し広げて考えてみたいと思います。

例えば「平和」ですが、みなさんならどう例えますか。あるいはどう言い換えますか。ここで「平和」を選んだのには、理由があります。
昔は「原子力の平和利用」、今なら集団的自衛権を認める安保法制とともに使われだした「積極的平和主義」といったところに出てくる「平和」は、はてさて本当に本来の平和を意味するのか。単に「平和」という言葉を頼りとした用い方ではないのか。
要は「平和」と言っておけば、人は納得するだろうと見抜いて使っている、言葉による印象操作の典型例としても取り上げてみたしだいです。

さて、そのことにいち早く気づいていた井上ひさし氏は「平和」をこう言い換えていました。
「普通の人々の日々の暮らしが穏やかに続く、少しでもよりよく続く」

ぼくは早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースで「文章表現」の授業のお手伝いをしていた時、学生たちに「平和」をどう言い換えるかの問題を出してみました。拙著『必ず書ける「3つが基本」の文章術』(幻冬舎)でもふれていますが、学生たちはこんなことを書いていました。
「実家に帰ったら父と母の口論が聞こえてきた」
「夕方のニュースの最後が動物ネタだったとき」

こういう表現の仕方も比喩の範囲にあるとぼくは考えています。
村上氏は『ねじまき鳥クロニクル』で「外に出て仕事を持つということは生易しいことではない」と断って、こう続けています。

 庭に咲いているいちばん綺麗な薔薇の花を一本摘んで、それを通り二つ隔てた先で風邪で寝込んでいるおばあさんの枕元に届けて、それで一日が終わるというような平和でこぎれいな代物ではない。ときにはろくでもない奴らと一緒にろくでもないことをしなくてはならないこともある。(略)

「平和」という言葉も使われていますが、なるほど仕事とは? の説明に、こんな例え、それもこんなふうにこと細かく描写する表現法があるんだ、と印象に残ったものです。
参考までですが、村上氏は『村上さんのところ』で原子力発電所についてこう書いています。

 僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。
nuclear=核、atomic power =原子力です。(略)そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようという国の意図が、最初から見えているようです。「核」というのはおっかない感じがするから、「原子力」にしておけ。その方が平和利用っぽいだろう、みたいな。

 

ところで、比喩的言い換えの効果ですが、ぼくは第一によりよく伝わる点を挙げたいと思います。描きたい物事について辞書的な言葉の説明に終始しては、面白くもおかしくもありません。
先の「仕事」でも、手元の辞書にはこうあります。

1 頭やからだを動かしてはたらくこと。
2 職業。
3 物理で、物体に力がはたらいて位置が変わること。仕事量は、加わった力と物体が動いた距離をかけあわせた数値。

ああ、そうですか、そうですね。仕事というのは――という感想しか浮かびませんが、村上氏のように書いてくれると、仕事の実態が労働とも重なって、そう、その感じ、わかります、と言いたくなるほどイメージを伴って頭に入ってくる。実感と一緒に胸にストンと落ちてくる、そんな印象があるんですね。
村上氏の話題の新著『騎士団長殺し』から引いた次の文章は、「村上春樹氏に学ぶ比喩表現 その2」でも紹介しています。

 私は雨降りを眺めるのをやめて、彼女の顔を見た。そしてあらためて思った。六年間同じ屋根の下で暮らしていても、私はこの女のことをほとんど何も理解していなかったんだと。人が毎晩のように空の月を見上げていても、月のことなんて何ひとつ理解していないのと同じように。

この文章を受けての夫婦である男と女の会話も興味を引きますが、男が車で家を出て、やがて北海道は苫小牧へ、そしてコインランドリーでの衣服の洗濯が終わるのを待つ間、男は近所の床屋に入ります。次に、その場面で男の心境がこう描き出されています。

 そのときに床屋のテレビでNHKのニュースを久しぶりに目にした。というか、目を閉じていてもアナウンサーの声はいやでも耳に入ってきた。でもそこで伝えられた一連のニュースは始めから終わりまで、私と何の縁も関わりも持たない、どこかよその惑星の出来事みたいに思えた。あるいは誰かが適当にでっちあげた作り事のように思えた。

現実の世からさまよい出てしまった心。事物に託してこそ、事物をして言わしめてこそ、心境はより描出できる。読み手にはその心が心に沁みるようにわかるんですね。
実はこういう比喩的言い換えの妙に、村上氏の文章の魅力と真髄がある、とぼくは思っています。

次回も引き続きそのあたりのことを――。

Twitter Facebook