「誰しも、いろいろなことを自分の枠に押し込めてしまうものですが、物語の中でぐらいは『そうじゃないんだよ』と提示してもいいじゃないですか」

 

1月の講師には、三浦しをん氏をお迎えした。

1976年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。
2000年、小説『格闘する者に○(まる)』でデビュー。06年に『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞を受賞する。2012年に『舟を編む』で本屋大賞を、2015年に『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞を受賞。
他の小説作品には、『風が強く吹いている』『神去(かむさり)なあなあ日常』『木暮荘物語』『政と源』などがあり、『悶絶スパイラル』『ビロウな話で恐縮です日記』などユーモアあふれるエッセイも好評を博している。本講座では、2012年以来、5年連続の登壇となる。
また、今回はゲストとして、国田昌子氏(徳間書店)をお迎えした。

講座の前半では、受講生から提出されたテキストへの講評を行った。今回のテキストは、エッセイが2本、小説が3本の計5本。
・市原力『毛よりも大事なこと』3枚 ※エッセイ
・新堂麻弥『毎度、お騒がせしております』7枚 ※エッセイ
・匿名希望『おばちゃんのけんちん』8枚
・村上啓太『彼女といた世界』20枚
・穂積みずほ『おばあちゃんの恋文』22枚

◆市原力『毛よりも大事なこと』3枚
髪の毛が薄いことに悩んでいる主人公は、同じ悩みを持つ野球部の先輩、勝さんと意気投合する。ふたりではげまし合い、互いに髪の成長を目指すが、その結果は残酷なもので……。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7879639

・池上氏の講評
まずね、この語り手は「何年生なんだ」というのが最初の感想ですね。中学か高校かで、あきらめのつき方というのがあるんですよ(場内笑)。そこの問題が大事なんです。どのぐらい悩んでいるのか、というね。これは何年生の話なんですか?

(市原氏「中学2年生です」)

これは中学でなければ、高校ではだめですか?

(市原氏「私が実際に、これに近い経験をしたのが中学生のときだったもので」)

僕もそのころはフサフサだったんですけどね(場内笑)。

(三浦氏「池上さんが、なんかすごい私怨を交えてる……(笑)」)

作品として言いますとね、これは短い中によくまとまっています。ですけどやっぱりね、同じ悩みを持っている人が近くにいてよかったね、で終わりになっている。髪の薄いことというのはね、僕なんかもそうですけど、実際に薄い人間からすると「だからどうなんだよ、そんなにこだわる必要ないじゃないか」という反感を持ってしまうんです。もっとしっかりしろ、というね(笑)。
じゃあどこに向けてメッセージを持たせるか。書き手はもうちょっと達観した年齢かと思ったら、市原さんは実際には若いし、いま見るとフサフサで、悩みもないんだろうなという感じでね(笑)。

(三浦氏「(笑)」)

これは小説もエッセイも同じなんですが、「何かを通して何ものかを描く」ことなんです。では、髪が薄いということでじたばたしている姿を通して、何を描くのか。これは結局、髪が薄くても、身近で応援してくれる人がいるということが一番うれしいんだよ、というほのぼのとしたいい話なんだけれども、それでは面白くない。その先がほしい。髪の毛なんかにこだわるんじゃないよ、という人生訓を誰かに言ってほしい(笑)。
あともう一点。他の人は違う意見かもしれませんが、僕の場合は、教室から云々という書き方に違和感がある。流れが悪い。トイレへ向かう、後ろから笑い声が聞こえる、頭を突っ込む、頭を洗う、不安が募る、と現在形で畳み掛けている。スピード感を出そうとしているんでしょうけど、こういった現在形で持っていくよりも、むしろ「体育の授業の後、滴る汗をタオルで拭いていると汗の色がどんどんと黒くなっていった」という一文から始めたほうがよかったんじゃないかと思いますね。

(三浦氏「そうですね。『顔から火が出るほど恥ずかしい』の後に『教室から逃げるようにトイレへと向かう』と、時系列順に書いていったほうがいいです。3枚という短い分量ですしね。こういう短いものの場合は、時間が行ったり来たりしないほうが、読者が入りやすいので、時間の経過通りに書いたほうがいいと思います」)

・国田氏の講評
私も時系列にそって記述というその意見に賛成です。ただ、市原さんのうまいところは、距離感だと思いました。おかしみが伝わってくるんですよね。これは書き手自身と対象との距離感が絶妙なところから生まれるおかしさと感心しました。
で、もう少し長く書いてもいいんじゃないかなと思いましたね。さっき池上さんもおっしゃいましたが、もっと読みたかったです。

(池上氏「あとは、ここからどうなったか、ですね。現在まで持ってくるというやり方もあるし、その後、悩んでいってもいいし、笑いにしてもいい」)

・三浦氏の講評
私も面白く拝読したんですけど、マジックペンで頭を黒く塗っていたのがクラスのみんなにばれちゃうって、けっこう大変な事態ですよね。拝読していて本当に胸が痛いというか、「どうしよう」と思ったんですけど、その大変な事態を、この短い中ですごくうまくまとめていらっしゃいますね。ただ、ちょっと最後がね。「髪の毛の薄い人を思いやれる人が近くにいる、それだけで俺は十分だ」って、たしかにそうかもしれないんだけど、この大変な事態に対して、何か「いい話」で終わってしまった感じなんですよ。この枚数だったらこれでもいいんですけど、もっと長く読みたいですね。青春小説として、もっと膨らませることができる題材だと思います。
あと、池上さんもおっしゃったように、登場人物の男の子たちが、中学生なのか高校生なのか、よくわからなくって。通学用の自転車のヘルメット、というのが出てくるから中学か高校だろうとは思うんだけど、どっちなのかなと。どこかで、いくつぐらいの子たちなのかを、さりげなく描いてほしいです。それによって、深刻度とか達観度とか違うと思うんですよ。なので、そこはさりげなく読者に情報を提示したほうがいいです。
あと、タイトルがちょっとストレートすぎる、と私は思いました。最後はすごくいい台詞だなと思うんだけど、それと呼応し合って、若干教訓臭いというか、そういう気もする。教訓臭さをかもし出しちゃう危険性があるから、タイトルはもう少し遠回しにしたほうがいいかなと思いますね。
ただ、3枚という分量ですごくハラハラしたし、最後は「ああよかった」と思うことができたから、そこは本当に楽しく拝読しました。ちょっと前の漫画なんですけど『ハゲしいな! 桜井くん』(高倉あつこ、講談社ヤングマガジンコミックス)という漫画があったのをご存じですか?

(市原氏「それは知らないです」)

若ハゲに悩む高校生のお話で、ギャグ漫画なんですけど、すごく面白くって、でもすごく切実なんですよ。恋とか友情とかでいろいろ悩むんです。主人公の桜井くんは前髪があるんですけど、その前髪が風に吹かれることを断じて避けなきゃいけないんですよ(笑)。そういう作品もあるので、機会があったらぜひ読んでみてください。

◆新堂麻弥『毎度、お騒がせしております』7枚
おっちょこちょいを自認する筆者。かつて財布を落として心細い思いをした経験があるが、20年後の現在、またキャッシュカードを落としてしまう。カードを停止する手続きはしたが、それでも不安になるのは、通帳に記されたある一文のためだった。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7886285

・国田氏の講評
私は何度か新堂さんの作品を読ませていただいているので、お人柄を彷彿としながら、微笑ましく読みました。しかし、このエッセイを、新堂さんを知らない読者にも面白く読んでもらうためにはするにはどうしたらいいのかということを考えてご執筆される時期かと感じました。
そのためには、起こった事実を正確に記述する方法のほうが、出来事のおかしさが伝わるのではないでしょうか。自分はこんなにおっちょこちょいなんだよ、と最初に言ってしまっていると、「それがどうしたの?」みたいな感じで読んでしまうので。私は、この最初の2行はいらないんじゃないかと思います。
それで、12月のあわただしい時期に財布を落とした、と最初にもっていったほうが
大変。どうしたの?と興味が繋がります。
「ああ、わたしは、いったいなにをやっているんだろう」というように、いつもしゃべっていらっしゃるご自分の口調のまま書くという新堂さんの魅力で推してゆくという方法もありますが、ご本人を知らない方にもエッセイとして楽しんでいただくのであれば、事実を記述していく中でおかしみが伝わってくる、という方向を目指したほうがいいのではないでしょうか。
でも、本当に旦那さまがいい味を出していらっしゃるので、ここはすごく面白かったです。そこを活かしつつ、ご本人を知らない方にも楽しめるように書いていただきたいと思います。

・池上氏の講評
新堂さんのエッセイは面白いんですけど、どうしても自己完結しているところがある。私はこんなにおっちょこちょいなんですよ、どうですか、という感じで、自分を見てくれという旗をたてる。自己愛が強いんですね。自分の失敗談をひけらかして終わり。それはそれでいいんですけど、もっと広がっていくこともできる。読者も同じようなことをやりますよね、というように、広がって終わるほうが絶対にいいです。
さっき国田さんが言ったように、最初から「自分はおっちょこちょいだ」云々、自分を見てくれ、自分を見てくれという旗を高く掲げているんですけども、ここは高く掲げないで、ゆっくり事実だけを並べていく。
やっぱりね、この旦那さんがいい味を出しているんですよ。真面目な感じなのに「~~だず」という山形弁もいい。本講座出身の、深町秋生の最新作『探偵は女手ひとつ』(光文社)の舞台は山形で、全篇にわたって笑っちゃうぐらい山形弁です。主人公の女探偵も「~~だず」とか「~~だがした」とかね。山形弁は土着性があって、とぼけた味わいが出て、人間性のちょっといい部分が出るんですね。そういうところで、「うさちゅう」という愛称の旦那さんが常にいいキャラクターなので、最後にもう一回出してきて、この事故の顛末を笑えるものにすると、作品として広がりが出たと思います。

・三浦氏の講評
そうですね、おふたりがおっしゃるところはもっともだと思います。ちょっと読みにくくて、とくに冒頭から前半の、情報の提示の仕方とか時系列とか、飲み込みづらいんですよ。22歳のときに財布を落としたことがある、と書いてありますよね。では、これを語っているご本人はいまいくつなのか、読者はまったくわからないんですよ。22歳のころに財布を落としたというのが、2年前なのか、あるいは20年前なのか。この時点ではそれがわからないので、この人がどのぐらいの頻度で財布を落とすおっちょこちょいなのか、というのもわからないんですよね。
で、その直後に「財布にはもらったばかりの給料や、クレジットカードとキャッシュカードが数枚、そして健康保険証など、とにかく大事なものが財布の中に収められていた」と書いてあるんだけど、これが今回のことなのか、22歳のときのことなのか、わかりにくいです。それで、財布を落としたエピソードが「一人暮らしをして一年目の冬」と語り始められるんですけど、これもいまのことなのか22歳のころのことなのかわからないし、22歳のころが何年前なのかもわからないのに「一人暮らしをして一年目の冬」という新しい情報が出てくるので、私は頭の中が大混乱に陥り、「うーん……読みにくい」と思いましたね。
クリスマスに先輩と食事するエピソードが出てくるんだけど、この先輩が男なのか女なのかとか、いろんなことが頭をよぎります。なぜこの会社は給料を振り込みにしないんだろう、とかもあるんだけど、そもそも何年前なのかわからないから、まだ振り込みが一般的じゃなかったのかもしれないし。いまだったら振り込みが多いですけどね。
なので、今回も財布を落としちゃったのかな、給料も入ってたのかな、だとしたらなんで、22歳のときの体験をもとに、振り込みにしてくれるように会社に頼まないんだろう、とか(笑)、いろんなことで気がもめるというか。
そして、1ページ目の最後のほうで「警察にお世話になったのなんて二十年ぶりなんだから」とありますね。これは、22歳のころに財布を落として以来、という意味なんでしょうか。わかりにくいです。若いころにちょいとグレてて補導されたのかな、と思ってしまいました。財布を落として、届けてもらったというのを「警察にお世話になった」というのは、まぁ実際お世話になったんだしユーモアを持ってそう言っているのもわかるんですけど、情報不足で何のことかよくわからない。焦点を絞り切れていないというか、読者にわかりやすいよう情報を整理するやりかたが洗練されていないです。
むしろ、22歳のときに財布を落とした話はしないで、冒頭から「しまった、財布を落とした!」で始めて、「私はいつもこんなふうにおっちょこちょいをしでかすんだけど……」という感じで、話を今回のことに絞って進めてもいいんじゃないですかね。そんな気がしました。通帳を「六時以降の食事をしたら罰金用」にしよう、というのはすごくいいですね。これは私もやってみようと思いました(笑)。
ええと、そういえば今回は財布じゃなくて、キャッシュカードを落とした話ですよね。それで通帳のほうを見たら、借金だかの限度額が「500万円」とかって書いてある。その事実を、うさちゅうとの会話の前に読者に提示するべきです。でないと、作者がどうしてこんなに動転しているのかわからない。しかも口座には100円しか入っていなかった、と会話で明かされるじゃないですか。だとしたら、この人はなんでこんなに動転しているんだろう、と読者は思ってしまいますから。ちょっと勘違いして、「拾った人に500万円使われちゃうかも」と誤解している、という展開を見せておかないと、読者には通じないと思います。
あと、さっきの『毛よりも大事なこと』にも通じるんですけど、短い枚数のときは、話が過去に行ったり現在に戻ってきたりするのは、把握しにくいから、なるべく避けたほうがいいです。

◆匿名希望『おばちゃんのけんちん』8枚
幼稚園児、なつこの家には、お母さんと、佐藤のおばちゃん、池田のおばちゃんがいっしょに住んでいた。のんびり屋のなつこは、厳しいお母さんにいつも叱られている。ある朝、幼稚園に送っていってほしいとお母さんに頼むが、「ひとりで行きなさい」と言われ、なつこは落ち込む。そんななつこを見かねて、池田のおばちゃんが自転車に載せて送っていってくれたが……。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7886456

・池上氏の講評
これは徹底して子供の視点で書かれていますね。大人の視点だったら、うちは何々屋さんで、こんな従業員がいて、お父さんはこんな仕事をしていて、という家庭環境の説明が入るんですけど、それが一切ない。ないから不満をおぼえる人もいるでしょうけど、不満をおぼえるまえにすいすい前に進んでいって、繰り返される日常の生活があって、そこにリズムが生まれる。何とも言えない幸福感というか、そこで生活している人間たちの、静かなたたずまいが見えてきて、感情も伝わってくる。こういう生活もいいよね、という、ある種の幸福感がある。
そして、そこで生きている少女の生き方。いろいろ言いたいこともあるし問題もあって、お母さんも厳しいんだけども、そういうことって、ある時期の子供には絶対に必要なんですよね。厳しいばかりのお母さんにも、子供がうかがい知ることのできない面があるはずなんだけど、いちいち説明しない。説明しないんだけど、読んでいる僕たちは、そういう生活と子育てというものが見えてくる。そういうところがとてもいい。筆を抑えて、ある種の散文詩というほどではないんだろうけど、現在進行形でリズミカルに、日常生活の反復を描いている。いい作品だと思いました。

・国田氏の講評
私も文章はすいすい読めましたが、やはり情報がわからないのが読んでいてもどかしい。この家について書かれていることって、三枚戸の玄関があることと、それからお勝手と畳部屋があることしかないんですね。どういう家なのかな、というのがすごく疑問でした。
たぶん何か商売をやっているんだろうな、と類推しながら読みました。子供の視点であっても、たとえばお店の入り口になっている三枚戸の玄関に看板が見えるとか、何かひとつ描写があれば、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
そして、時代がいつなのか。だいぶ前の話らしいことは、米びつとかお菓子の缶とか出てくるのでわかるんですけど、その辺で類推するしかないというのが、不親切では?
いつ頃の話かで、イメージがちがうのでもやもやとしてしまい、読みながら、この作者はもっと書ける方なのにと、残念に感じました。
ただ、文章はすごく流れていくので、そういう良さはありました。
お母さんと池田のおばちゃんと佐藤のおばちゃんと、3人のけんちん汁の味が違う、子供心に食べやすかったという話がどこに繋がってゆくのか、これは、もっともっと長くお書きになる話と感じましたので、続けてご執筆されるように願っています。
しかし、基本的に読者は私達のように根気よく、親切に読んではくれないと思います。いつの話なのか、時代の雰囲気とか、そういう情報はやっぱり知りたいです。子供の視点でも書けることはあると思うんですよね。
そして矛盾していると思ったところですが、2枚目のところで、お母さんに「幼稚園に送って」って言うんだけど、その直後に「私はお母さんが運転しないことを知っている」と出てくる。じゃあなんで、言ったのかな、と思ってしまいました。
読者にいろいろな葛藤を持たせるというか、これはどうなんだろう、どうなんだろうと思わせながら読まなくてはいけなかったので、そこら辺の情報をきちんと抑えてご執筆すれば、もっといい作品になったのではと感じました。

・三浦氏の講評
みなさんの感想を聞くとそのとおりだと思いますし、作者の方が書きたいこともわかります。それがちゃんと描けてもいると思います。
いま国田さんがおっしゃった、お母さんが運転しないことを知っているのになぜ「幼稚園まで送って」と言ったのか、というのはたしかにわかりにくいんですよね。でも、私なりに読んで想像をはたらかせるに、友達のえっちゃんがいつもママと一緒にいるのを見ているから、主人公のなつこは「自分も歩いてでもいいからお母さんと一緒に幼稚園に行きたい」と思って言ったのかな、と考えました。その辺は作者の方にお聞きしたいんですが、どうでしょうか。

(匿名希望氏「はい、その通りです」)

だとしたら、やっぱりちょっと情報量が足りないと思う。抑制が効いてる語り口はいいんだけど、せっかく一人称をとってるわけですよね。主人公本人が語っている一人称なわけですから、えっちゃんはいつもママと一緒にいる、というのを地の文で主人公が語ったあとに、そこへの思いを少しだけでも入れたほうが、読者にどう思ってほしいかをもうちょっと誘導できると思うんです。いまのままだと、運転できないママになんでそんなこと言うんだろう、と思う読者もいるだろうし。何もひっかかりもなく、ただ書いてあることを読んで、それだけで済ませちゃう人も出てくると思うんですよ。なので、もう少し情報をさりげなく入れる必要はあると思うんですね。
たとえば、このおうちがどんな作りなのか、その構造もわからないし、お母さんがどうしてこんなヒステリックなのかも、想像すればいいと言えばそうなんですけど、もう少し「こう読んでほしい」というのをさりげなく織り交ぜないといけないと思うんです。
玄関の中で傘を広げられる、というのはかなり大きな玄関ですよね。でも、大半の人はそんなでかい家に住んでないから「巨大……!」って思っちゃうんだよね(笑)。昔ながらの古い日本家屋で、土間があるような家なのかな、とか。そこで読者に、何の手がかりもない中から、想像をはたらかせることを強いているわけじゃないですか。それはやっぱり小説として不親切なので、どうさりげなく読者の想像をかき立て、作者が思い描いている絵を、うまく誘導して思い描かせるかというのが、書き手の手腕の見せどころです。つまり、心情や情景の適切な塩梅の描写が必要ということです。この作品では、それがちょっと足りない。
私だったら、この話は一人称にはしませんね。一人称だから、情報の入れ方が難しいんです。さらにこの子は幼稚園児でしょう。幼稚園児だっていろんなことを感じるし考えるけど、こんなに理路整然と頭の中で文章を紡げますかね。一人称を採っているということは、地の文も含めて、これ全部、幼稚園児が考えていることだ、ということになります。まず1行目の最初に「大きなワイパーが動き始めた」。これも幼稚園児が、風景を見て頭の中で語っていることなんですよ。ね? そう考えるとちょっと不自然じゃないですか。
私だったら、これは三人称の単独視点にします。つまり、なつこの視点でこの通り語っていいんです。地の文も含めて。だけど、それをなつこの一人称で「私はこう思った」というのではなく、「と、なつこは思った」と書く。三人称で、あくまでなつこの視点を通した話にしたら、もっと情報も簡単に入れられるようになるし、なつこの心情に一人称とほぼ変わらない形で迫ることもできます。そういう利点があるので、私はこの作品の場合、三人称単独視点にするのがベストかな、と思いました。

◆村上啓太『彼女といた世界』20枚
昨夜、私は、彼女と一緒にホテル豊月館のツインルームに宿泊していた。しかし、朝起きると彼女の姿は綺麗に消えていた。私は、だだっ広いツインルームに一人きりで残っていた。窓の外には、西島天上界という、異世界に繋がる巨大な鳥居の姿が見えた。私は、その鳥居を激しく憎みながらも、結局一人でそこに向かったのだった。そして……。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7886361

・国田氏の講評
勢いはありました。しかし、こういう夢の世界を描く場合、それがどういう世界なのかイメージをご自分できっちりつかんだ上で描かないと、読者にはぜんぜんわからないです。しかも、文章の中で「そんなことはどうでもいい」と書いてしまっているんですけど、読者にとってはどうでもよくないんです。
この饒舌な独白が、ちゃんと意味を持つような形で推敲していただかないと、読むのが苦痛な作品になってしまうと思うんですね。
たとえば、「ホテル豊月館アネックス」だとか「西島天上界」だとか、こういうネーミングは椎名誠さんの『武装島田倉庫』(新潮文庫)とか、ああいう作品群につながるセンスを感じて、期待しました。でも、この夢の世界がどういう成り立ちなのかというのを、架空の世界ですが、作者の中で、まだきちんと構築できていない段階で、勢いとおもいつきで書いたのではと感じました。このままでは、まだ面白さが読者には伝わらないと思います。
鳥居から入ったらみんなビュンビュンと飛び回る光に変わってしまう、みたいなことを書いてあるんだけど、それはどうしてなのか。全部は書かなくても、ご自分の中でその意味を把握できていれば、異世界の出来事でもちゃんと伝わります。この作品だと、それが思いつきで、そのまま書いていらっしゃるように感じられてしまいます。
自分の思うことを、ずらずら書いているような形で、最初から「楽しいような話やどうでもいいような話や真面目な話やなんかをダラダラダラダラとしながらも」、「面白いような話や取り留めのないような話や真剣な話やなんかをダラダラダラダラとしながらも」と2回続けて書いているあたりは、文章のリズムを作るために明確な意識を持ってやったのか、それとも単に成り行きで書いたのか。そこら辺が曖昧な形なんじゃないかな、と私は感じてしまいました。
こういった、あり得ないような話を書く場合は、繰り返しなどの効果は、かなり意識的に使って書かないと、読者はいらいらしちゃうと思うんです。異世界の話をお書きになりたいという意欲は好きです。しかし、そのためには、異世界のイメージ、その世界の論理というものをご自分の中にしっかり作って、お書きになって頂ければと思います。どんなに妙ちくりんな世界の物語でも作者の中に、きちんとその世界がなりたっていて、曖昧なところがなければ、ユニークな作品を生み出せるのではないでしょうか。

・池上氏の講評
村上君、椎名誠は読んでる?

(村上氏「椎名さんの本は読んだことないです」)

先日、角川文庫から『椎名誠 超常小説ベストセレクション』という本が出ました。これは僕も朝日新聞の書評で取り上げて褒めましたけど、ものすごい傑作です。なぜかというと、この世にありえない世界、妄想に類したような世界を描いているんですけど、椎名誠がすごいのは、造語なんです。造語があふれんばかり、1行に1つ以上は出てくるんです。あるパーティーで椎名さんにお会いしたときに、どうしてあんなに造語が作れるんですかと本人に聞いたことがあるんですよ。この講座で、みんなの参考になるようなヒントを教えてくれるかなと思ったら、たった一言。「あふれてくるんだよ」(笑)。そう言われた瞬間、もう「わかりました」ですよね。頭の構造が違う。
変な言い方になるけれど、ありえない世界の、ありえない事物を造語で描くのに、ありありと想像できるし、身近に感じ取ることができる。つまり「造語のリアリズム」です。ありえない世界の造語なんだけど、その言葉で表現されている世界がもうビンビンわかるんですよ。存在しない世界、存在しないモノ、虫、生物。そういったものを次々に繰り出してきて、それを読むことで快感をおぼえる。妄想ですよ、はっきり言って。でも妄想をどのように描くか、というのはやっぱり言葉なんですね。言葉がいちばん大事で、読者のイマジネーションがそこで広がるんですね。
それに比べると、村上君の場合は広がらない。なぜかというと、語彙がたりない。「ビュンビュン」言葉を何回も使いすぎ。もっと語彙を豊富にしましょう。妄想というのはね、次々に広がって暴走していく快感があるんですね。たぶんそこを目指しているはずなんだけど、この主人公はいちいちブレーキをかける。自己否定と自己言及。それが魅力になる作品もあるが、残念ながらこの作品では逆効果。不思議な世界を「不思議」と言ってしまうと、読者は不思議な感じがしなくなってしまう。そこは別の言い方にして、もっと妄想の快感、暴走の快感をもっと違う表現で書く。この言葉はさっき使ったし、これは通じないからもっと深い言葉を表そう、という意識をもつこと。そういった言葉との格闘がないと、この世界はなかなか書けないし、広がらないし、やっぱり難しいと思う。
椎名さんのようには誰も書けない。誰も書けないようなところで圧倒的な語彙を駆使して、ありえない世界を描いている。そしてその小説に実に多くのファンが昂奮している。読んでいないということは、言葉は悪いが傲慢です。自分よりもうまく書いているやつなんかいるか! という態度になる。でも、いっぱいいるんです。うまく書いている作家がたくさんいる。その現実をみないと前には進めない。同じ方向を目指さないためにも、大きな壁となっている椎名誠を読まなくてはいけない。どこを目指すのかを考えること。自分の可能性を探るためにも、自分の道筋をつけるためにも、先行する有名な作家を読んで考えること。自分の書いている文体、文章、世界はこれでいいのか、と自問自答しながら書いてほしいと思います。

・三浦氏の講評
村上さんの作品は昨年も鶴岡で拝読しましたね。あの作品もすごく面白かったし、ちょっと不思議な、不条理な世界観がいいなと思いました。この作品も、よくこんなことを思いつくなと思います。巨大な鳥居と戦う、みたいな。どうかしてますよね(笑)。村上さんは、何か違法な薬物をキメているわけではないんですよね?

(村上氏「……やってないです(笑)」)

(笑)そりゃそうだよね、失礼。独特の持ち味があるし、怒りが炸裂するところもいいんだけど、やっぱりみなさんがおっしゃるように、発想やモチベーションはいいけど描写が追い付いてない。文章の洗練度がちょっと足りないかな、というところがあって、それが作品への間口を狭めていると思うんですね。「ビュンビュン」とか「ダラダラした会話」云々というのが連続するところとかも、私はわりと文章にリズムを生んでいていいと思うんだけど、そういうものはそういうものとして使いつつ、それだけで押すのはやはり難しいので、一方で描写力を高めることが必要だと思うんです。
そのためにはやはり、この世界はどうなっているのか、というのを全部は書かなくても、ご自分の中でもっと練り上げることが必要です。たとえばね、巨大な鳥居をみんながくぐっていきますよね。でも、そのくぐっていく人たちが、語り手である「私」以外はカップルなのか、それとも語り手と同じようにひとりの人もいるのか、ぜんぜんわからないですよね。どういう風体でどういう年齢層の、どんな人たちがどんな様子でいるのか。だって、鳥居をくぐったら光になってしまうのを見ているんだから、それに対する驚きとか、熱狂とか、もしくは「やーめた」っていう人はいないのか、とか。そういうことを描写しないと、なんだかわかんないけどこの世界って、みんなが鳥居に詰めかけていくところなんだな、ということが伝わりませんよね。そういう描写があるといいかな、と思いました。
それから、やっぱりもう少し推敲したほうがいい。冒頭2行目に「いや、そんなことはどうでもいい」とありますが、さっき国田さんがおっしゃったように、どうでもいいことなら書くな、と(笑)。これはやっぱり失敗です。そんなどうでもいいことを読まされるのか、と読者は思っちゃうんだよね、冒頭に持ってこられると。それに、最初に「ホテル豊月館アネックスのだだっ広い部屋の窓からは、西島天上界への入り口として聳える巨大な鳥居が見えた」とあるんだけど、読み進めていくと「昨夜は遅くにチェックインして、部屋のカーテンもそのまま開けずに、早速彼女とセックスをしたのだ」とあるんですよね。つまり昨夜は見てなくて、今朝はじめて見たということですよね。だとしたら、「聳える巨大な鳥居が見えた。しかし、それを知ったのは今朝になってのことだ」とすればいいんです。そして「昨夜は遅くにチェックインして、部屋のカーテンもそのまま開けずに」と続けば、状況もわかるし、読者に「どうでもいい」と思わせずに、「何が始まるのかな」という期待を抱かせることができると思うんですよ。
あとは、「恋愛神の恋愛様」というネーミングはもうちょっと考えたほうがいいと思います。「ホテル豊月館アネックス」とか「西島天上界」とかはすごくいいのに、恋愛の神様が「恋愛様」なのは「そりゃねえだろ」っていう(笑)。そこはもうちょっと考えたほうがいいと思う。何かちょっと面白かったり、意味はわからないけど不思議な響きがする名前だったり、そういうのを考えたほうがいいんじゃないでしょうか。
語尾が「~~のだ」「~~なのだ」と続くのもリズム感を殺ぐのでやめたほうがいいし、「~~のような」が連続するのも、言い回しを変えたほうがいいですね。
あとさあ、このラストは夢オチみたいな感じに受け取られますよね。そうしちゃうと、じゃあ西島天上界とか鳥居とかは何なのか、謎が全部解明されすぎちゃうと思うんですよ。なので私だったら、ホテルに昨夜遅くチェックインしてセックスする、その前に、たとえばフロントの女の子がとっても素敵な声で、「今日は西島天上界のお祭りの日なんですよ。お客様もそれ目当てなんでしょう、頑張ってくださいね」みたいに言ってくれて、超かわいかったのでそっちに気が移りそうになるんだけど、とりあえず彼女とはがつがつセックスしたんだ、という流れにする。現状、翌朝からチェックアウトまでのあいだで提示される情報を、話の冒頭から時系列に沿って提示されるように改稿しますね。そして、鳥居との戦いがあるわけですが、そこで「お前、彼女なんか最初からいなかっただろう」と追いつめられますよね。それに対して、「ああそうだよ! 俺はひとりでここに来たよ!」と逆ギレする展開にする。「西島天上界に行きたくてここに来たんだよ! この酒も、彼女とふたりで飲んだように見栄を張ったけど俺ひとりで飲んだんだよ! 悪いか!」みたいに言って、そしたらぱあーって鳥居より上に上がっていくことができて、ハッと気づいたら自分はまだ鳥居の前に立ってて、とぼとぼ歩きだしたその背中に、鳥居が「必ず素敵な彼女ができますよ」って励ましてくれる。天上界には行けなかったんだけど、まあいいや、というふうな話にすればいいんじゃないかな。こうしたら夢オチを避けられるし、不条理感もそのままで、作品のテイストを維持したまま終わらせられる。もうちょっと流れとまとまりが出るんじゃないか、などと愚考しました。
夢オチにしちゃうと、これは私たちが生きている現実に立脚した話ということになって、だとすると異世界のほうも何か現実の理屈が通じる設定があってしかるべきというか、私たちのいまの常識でツッコミを入れてしまうんですよ、読者は。そこを「お前らの常識など及ばぬ世界なのじゃ」と押し通すためには、やっぱり夢オチとかじゃなく、不条理に振って終わったほうがいいです。でも、鳥居としゃべるところとか、鳥居と戦闘するところとか、あと鳥居が手を振ってくれるところとか、私はとても好きです。

◆穂積みづほ『おばあちゃんの恋文』22枚
姪っ子のあずさにせっつかされて、来月の引っ越しのため部屋の片付けをするみさき。処分のために手に取ったのは、大学時代に使っていたフロッピーディスクだった。その中に、「おばあちゃんの恋文」というタイトルの「戦争の記憶」の課題レポートが見つかり、あずさとともにそのレポートを読み直し、祖母である千代おばあちゃんの戦時中の相手に想いを馳せる。
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7886419

・国田氏の講評
基本的に読ませる力があると面白く読んだんですが、1行空きがものすごく多くて、気になりました。ささいなことのようですが、さっきの村上さんの作品もそうなんですけど、1行空きって非常に安易な段落の付け方なので、ここをどうしても目立たせたいとか、時間差をここで示したいとか、必然性のあるとき以外は、ちゃんと描写の中でつなげていただきたいと思いました。それは基本的なところです。
いま「結婚しない症候群」の女性がポピュラーな時代ですね。私の周りでも、可愛いし性格もいいし、結婚願望もあると言っているのに、なんで結婚しないのかな、という女性がとても増えています。ある種の時代の気分というか、みんなおひとりさまでいろんなことができる時代なので、この時代に生きるアラサー女性の心情はすごくよく書けていると思います。
それと対比して、おばあちゃんの恋のお話を持ってきました。お見合いで出会った素敵な男性と、戦争で引き裂かれてしまったという、歴史的な事実をふまえた、悲恋の物語として主人公と対比しています。それはすごくうまく描いていると思うんですけど、そこから最後に、自分で納得しちゃいますね。「自分自身が、本気で誰かのぬくもりを感じようとしていないような気がした」というようなね。そうやって納得してオチをつけちゃうんじゃなくて、自分が感じている不安とか、充足感を求めているんだけどそこにどうしても行けない、という現代的な逡巡みたいなものが、この作品の中で描けたのではないかと惜しいと感じました。そこをもう少し見つめて、この作品のなかでも、もっと深いところにたどり着く物語が書けたのではないでしょうか。
しかし、文章は非常にうまく整理されているし、すんなり面白く拝読しました。

・池上氏の講評
この姪っ子がストーリーに必要かどうか、読者の意見は分かれるでしょうね。
僕の感想を言うと、過去と現代がうまく対比されているし、姪っ子もいいキャラクターで、面白いです。でも、よくまとまっているんだけど何か物足りない。これはやっぱりね、結婚制度に従う人間の話にしてしまうからつまらないのであって、おばあちゃんは春雄さんというひとりの男の人をずっと愛していた、という、その恋する思いを取り上げると、もっとよくなる。結婚制度の中で男女の恋愛を見つめてしまうと、面白くなくなるんです。
じゃあ、そういう結婚云々ではなくて、とにかく恋愛をしようというか、そういうふうに持っていったほうが、この作品はもっと広がりができて面白いと思う。今風のアラサーにとって結婚する・しないは大きな問題かもしれないけど、この作品だとね、死んだおじいちゃんがかわいそうだよね(笑)。おばあちゃんは別の人のことをずっと思っていました、おじいちゃんは愛されてませんでした、かわいそう! ということになる。おじいちゃんを救ってあげなきゃだめだよ。読者も「おじいちゃん、かわいそうだなあ」ってずっと思っちゃうから。そういうことに気づかないと、作者は冷たい人だなと思う。そういう冷たい作家に読者はつかないよ(笑)。

・三浦氏の講評
おじいちゃんもさあ、結婚さえできれば相手は誰でもいいという、どうしようもない人でなしなのかと思っちゃうよね、この書き方だと。それは作者自身の、結婚制度というもののとらえ方が、ちょっと素直すぎると思うんですよね。私が結婚できないから言っている……わけでもあるんだけど(笑)。
私はもうね、この作品に関しては、主人公の結婚観がまったくわからなくて。まったく共感もできなくて、この子の言ってることをどう受け止めればいいかわかんないな、とずっと思っちゃいましたね。
作者の方のお話を聞くと、ご自身も姪御さんから「まだ結婚しないの」とからかわれるそうですが、そのつど「お前は旧弊な価値観で他人様を抑圧するダメ人間に成り下がるつもりか!」と説教しなきゃいけませんよ! 若い子たちに、自由な精神を持てるような教育をしなけりゃいけません。それは大人のつとめです(場内笑)。そういう旧弊なものにとらわれて、人をからかったり、おとしめたり、できそこないだというふうに扱ったりするような、そういう人間に、若い子たちを育てちゃいけないんです。結婚したってしなくたっていいじゃないですか。どっちにしたって、人に文句言われたりからかわれたりするような筋合いのことじゃありませんよ。

(穂積氏「これを書いていて、いちばん納得いかなかったのがラストのところだったんです。自分の中で納得していないんだけど、この歳で結婚してないともう終わりだよね、と飲み込まれそうになっている自分と、そうじゃない自分がいる中で、この結末はすっきりしないまま書いたんですが、しをん先生の『女子漂流』(中村うさぎ氏との対談、毎日新聞出版)を読んでいて、まえがきに「自分に正直に」と書かれていたのを見て「これだ」と思いました。もうちょっと正直な気持ちを書くべきだった、と思います」)

小説をまとめる段になると、やっぱり世間的な常識みたいなものに則ったラインに着地させたほうが、丸くおさまるしいいのかな、と思っちゃう気持ちはよくわかります。誰しも、自分がはぐれものだとは思いたくないから、どうしても人の顔色をうかがったりすることは当然ありますよね。それがまったくなかったらただの変な人だし(笑)、そんな人はみんなに嫌われちゃって、生きにくくなりますから。その変さで他者を傷つけてしまうことだってあるかもしれないし。何でも自分の意見を押し通してしまえばいい、というわけでは当然ないんだけど、この、結婚観の若干のおかしさが、この作品が持っているせっかくのいいテーマを分散させてしまっているんです、二通りの道にね。
私は、姪っ子はこの作品に必ず登場させるべきだと思うんです。主人公は姪っ子といっしょに、戦争によって人間が引き裂かれたり傷つけられたりする、その思いを分かち合うことができた。なんとなく感じ合うことができたわけですよね。にもかかわらず、最後のページで「特別な想いを伝えたい相手がいない自分自身が、少し悔しく思えた」と、主人公が語っている。ここに矛盾というか分裂が生じてしまっているんです。
主人公は、姪っ子に「何か」を伝えることができたわけじゃないですか。結婚していなくても子供がいなくても、人に何かの影響を与えたり与えられたり、伝えたり伝えられたりすることはできるわけですよね。おばあさんの手紙を通して、おばあさんと結婚できず子供を作ることもできずに死んでいった、春雄さんの思いも確実に届いているわけです。主人公にも姪っ子にも、読者にも届いているのです。春雄さんの人生が無為だった、と誰がいえるでしょうか。この作品は、そういうことを言おうとしているのではないんですか?
そして、大事に思っていた春雄さんを失ったおばあさんが、それでもちゃんと生きて、人とつながりを持ち続けて、いまこうやって主人公や姪っ子がいる、という実りを迎えているわけじゃないですか。それをこの小説は描いているにもかかわらず、「特別な想いを伝えたい相手がいない」と、結婚していないという一点を根拠に思い込んでいる主人公は、やっぱり矛盾しているし、おばあさんや春雄さんの思いをちゃんと受け取っていないんじゃないか、と感じられてしまうんですよ。だから、この小説を読んで「主人公の結婚観って、何なんだろう」と疑問に感じてしまうし、「姪っ子は何のために登場したんだろう」と感じる読者が出てきてしまう理由でもあると思うのです。
作者が作品を通して伝えようとしていることには、しっかりした芯があります。戦争という理不尽な暴力が、春雄さんの命を奪い、おばあさんの心を傷つけた。しかしその事実と、かれらの思い、人生は、主人公と姪っ子の胸にちゃんと届いたのです。春雄さんと主人公や姪っ子とのあいだには、なんの血縁関係もないけれど、それでも届いた。にもかかわらず、ラストで主人公が結婚云々と言い出すせいで、作品の芯がブレブレになってしまった。非常にもったいないと思います。結婚するかしないかなんて、ささいなことでしょ。ハゲかハゲじゃないかぐらい、ささいなことですよ(場内笑)。そうじゃありませんか。もちろん、結婚や毛量がすごく気になるしつらい、ということもあるでしょう。でも、人間の魂にとって本当に大事なのは、結婚や毛量ではない! 私はそう思うのですが、いかがでしょうか。ご自身の心の内をもう一回よく咀嚼なさってからリライトすれば、絶対にいい作品になります。
誰しも、偏見だったり差別だったりというのも含めて、自分の枠を通して世界を見ているものだし、その枠に自分を押し込めようともしてしまうんだけど、それって結局は自分も不自由になるし、他人にも何かを強いることだと思うんですよね。私は、それが世の中を悪くするんだと思うんです。旧弊さや「常識」といった、心の枷が。自由な心、新しい価値観を、物語の中でぐらい提示してもいいじゃないですか。それを読んで、さみしかったり、自分ははぐれ者なのかもと思っている人が、もしかしたらちょっと勇気づけられるかもしれない。結婚してて、超金持ちで、何もかも手に入れて、そうできない奴らは怠け者のアホだ、と思っているような輩を、より幸せな気持ちにさせる小説を書いてどうするんですか、ということです(場内笑)。小説っていうのは幸せに浸ってるおポンチな奴らをより幸せにするためにあるんじゃないので、もっと自信を持ってください。この作品にはとてもいいものがあるんですから、そこにもっと正直になったほうがいいと思います。
「結婚したい」という気持ちは、また別の小説で言えばいいわけですから(笑)。

※前半の、テキスト講評は以上で終了しました。後半では、池上氏の司会によるトークショー形式で、お話していただきました。その模様は「その人の素顔」にてアップいたします。

【講師プロフィール】

◆三浦しをん(みうら・しをん)氏
1976年、東京都生まれ。2000年、小説『格闘する者に○(まる)』でデビュー。06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞を受賞。2012年『舟を編む』で本屋大賞を受賞。15年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞を受賞。スポーツ小説の名作『風が強く吹いている』ほか『仏果を得ず』『神去なあなあ日常』など、エッセイに『悶絶スパイラル』『ビロウな話で恐縮です日記』など多数。現在、Cobalt短編小説賞、Cobaltノベル大賞、R-18文学賞、松本清張賞、小学館ノンフィクション大賞の選考委員を務める。

 

●『格闘する者に○(まる)』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4101167516/

●『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)※直木賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4167761017/

●『舟を編む』(光文社文庫)※本屋大賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4334768806/

●『あの家に暮らす四人の女』(中央公論新社)※織田作之助賞受賞。
https://www.amazon.co.jp//dp/4120047393/

●『風が強く吹いている』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4334768806/

●『仏果を得ず』(双葉文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4575514446/

●『神去なあなあ日常』(徳間文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4198936048/

●『悶絶スパイラル』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4101167613/

●『ビロウな話で恐縮です日記』(太田出版)
https://www.amazon.co.jp//dp/4778311604/

●『秘密の花園』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4101167540/

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