12月22日

 印刷所の動いているのが28日までであるため、各出版社から27日までに原稿を寄越せとメールが届く。ううむ、連載はまだ4本も残っているのだが。いかん。これより6日間は食事の時間も惜しんで書かなければ到底間に合わないではないか。そう言えば物書きになってからは一度としてゆったりした年末を過ごしたことかない。いつも綱渡りで、おまけに正月でもずっと原稿を書き続けている。きっと今年もそうなるのだろうなあ。
 飯塚市の市長と副市長が真昼間から賭けマージャンをしていたとのことで糾弾されている。糾弾されているのは「真昼間から」なのか、それとも「賭けマージャン」なのか。注目の仕方によって、その人物の倫理観も透けて見えるというニュースだ。こういう時、大抵の政治家は「法的に問題はない」とか言うが、いや、1円だって賭けたらそれは犯罪なんだったら。
 僕自身はおよそ賭け事に縁もなければ興味もない。生涯に楽しんだギャンブルといえばパチンコと宝くじくらいだが、それでも大学時分に2年ほど遊んでからは疎遠になってしまった。ただある尊敬する人物から「人間は一生のうちに使う運は限られている」と教えられてからは、商店街の福引さえ手を出さなくなった。こんな小さな賭け事で運を使うのが嫌になったからだ。
 何だ、よく考えてみればギャンブルが嫌いなのではなく一発大逆転を狙っているだけではないか。

12月23日

 10時、ハウスメーカーの担当者さんがやってくる。最前行なった工事の残務処理のためだ。こうしたこと(相手の不都合を含めて)を公開しているのをいつまでも秘密にしておく訳にもいかず、担当者さんを手招きして〈ピクシブ文芸〉のサイトを開く。
「えっと、とりあえずこことここに御社の話を挿入しておきましたから」
 担当者はあらあらあらと笑っていたが、目は笑っていなかった。きっと私小説を書いている作家さんは、こんな風に世間が狭くなっていくのだろうなあ。
 22時を回って、何とか「小説NON」連載用の原稿を書き上げる。続いて「小説宝石」連載用原稿に着手。
 ここまで読んでいただけば分かってもらえると思うが、ほぼ毎日がこんな状態なので書いた原稿を見直したり推敲したりする時間は僕にない。同業者間で噂されている〈都市伝説〉とやらは決して伝説でも何でもなく、スケジューリングが下手くそな物書きの開き直りのようなものに過ぎない。スケジューリングが下手なものだから、今日が天皇誕生日で皆が休日を愉しんでいるというのに、僕はといえば締め切りに追われ机の上でひたすら原稿を書いている。
 先日の芦沢さんとのトークショーでも話したことだが、憧れ産業であればあるほど光と影のコントラストは激烈なものになる。ところがマスコミで喧伝されるのは、ほとんどが光の部分でしかない。物書き商売についてもアニメーター同様に残酷物語を広く伝えるべきだと思うのだがどうか。もっともそんな話をしていたら憧れ産業ではなくなってしまうのだが。

12月24日

 昨日が祝日、本日を挟み明日は日曜ということで世の中は三連休を楽しむ人が多いだろう。しかも今日はクリスマス・イブときている。
 それなのに僕ときたらずっとパソコンに向かっている。まあこの商売になってからというもの日曜日もクリスマスもついでに正月もないのだけれどいったい何故こんな商売を選んでしまったのか自業自得だろでもこれではあんまりうるさい仕事せえ仕事。
 いい加減書き疲れたので、『スローターハウス5』を観賞。言わずと知れたカート・ヴォガネットJrの原作をジョージ・ロイ・ヒルが監督した時間SFの傑作――と、30年前はそう思っていたのだけれど、今再見してみるともっと深遠なテーマを内包していたことに気づく。あああ、しかも音楽はかのグレン・グールドではないか。
 傑作というのは映画も小説もそうなのだけれど、観賞する年齢やタイミングによってころころと印象や味わい深さが違ってくる。こんなことができるのも手を伸ばせば届く範囲に愛読書や映画ソフトがあるからだ。とにかく棚に目を走らせれば背表紙が視界に入り、思わず手に取ってしまう。レンタルや配信も結構だが、こういうことは書籍なりパッケージメディアが手元になければ思いつきもしないだろう(他人はともかく、僕はそうだ)。
 断捨離と逆行する生活スタイルだが、こういう生活にはこういう生活の旨味というものがあり、なかなか手放す気にはなれない。って言うか、くたばれ断捨離。

12月25日

 執筆途中、パソコンの調子がおかしくなったので、ソフト会社に勤める友人に様子をみてもらう。そろそろハードディスクの寿命がきているので交換すべきとのこと。
 昼食がてら〈今、岐阜はブームである〉という話をするが、おそらく不完全燃焼で終わるだろうということで意見が一致する。作家を多く輩出し、人気アニメの舞台になっても、まず観光地化することは有り得ない。
 何故か。
 岐阜の人間は商売が下手、というかまるで商売っ気がないからだ。これは隣の名古屋に比較してみると一層際立っている。
 数年前だったか、生まれ故郷が映画のロケ地に選ばれたが、役場の観光課は積極的に動こうとしなかった。監督がロケハンの途中でいい佇まいの民家を見つけた際、観光課の役人と交わした会話がこうだった。
「ああ、あの家使わせてもらえませんかね」
「無理です」
 けんもほろろとはこのことだ。
 この時、窓口に立った職員は観光課に配属されたばかりであり、しかも映画に一ミリの興味もなかったらしい。所有者に確認もしないで無理です、と断言したのは所有者との交渉が鬱陶しかったからに過ぎない。こうして折角町興しのきっかけになるはずだったネタを、こともあろうに役場の観光課が潰してしまった。
 この職員の対応はもちろん、映画に興味のない人間を撮影スタッフの窓口にする上司もどうかしている。これは本当に極端な例だが、岐阜県民という括りで見た場合に少なからず頷いてしまうような県民性もある。岐阜県出身の作家さんは多いが、漏れ聞く人物評はいずれも朴訥であり、商売っ気があまり感じられない。オレがオレがという風ではなく、目立つのが苦手というのが一般的な印象。もう少し欲深なくらいがちょうどいいのだろうが、多分そういうDNAが心身に刷り込まれているのだろうなあ。

12月26日

 KADOKAWA・Fさんより原稿督促のメールが届く。
『本日が締切日でしたが、進行状況はいかがでしょうか。年末進行が重なりお忙しい中恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします』
 言い訳の文章を考えるのに約30分を費やす。辛い。
 午後になってからようやく「小説宝石」連載用の原稿を脱稿、休む間もなく督促をいただいた「文芸カドカワ」の連載原稿に着手。こちらも二日間で仕上げなければならない。
 気晴らしに同業者さんたちのツイートを覗くと誰も彼もが年末年始は原稿用紙に向かう様子。重ねて書くが、こんな生活、作家志望者さんたちは本当に望んでいるのだろうか。
 15時、カーポート改築のためハウスメーカーさんが訪問。先日、僕の日記に登場させられているのを知ったせいか、余計なことはひと言も口にしようとしない。きっと私小説を書いている作家さんは以下同文。
 夕方になって息子が帰省。相変わらずの極楽とんぼぶりだが、話を聞けば音大の生徒さんは多かれ少なかれ皆こんな風なのだと言う。まず、こんな時期だというのに学生課が就職斡旋に積極的ではない。一般企業に就職したいなどと口を滑らせると途端に冷淡な態度に豹変するという。ただし生徒自身が就職活動に血道を上げている訳でもないとのこと。
 やはり音楽家を目指そうとする人間は、どこか世間ずれしているものなのだろうか。

12月27日

 今度は大阪から娘が帰省してくる。これでようやく家族4人が揃ったが、言い換えれば僕だけが書斎に閉じ籠もる訳で、何と言うかこれはこれで辛い。そうこうしているうちに宝島社さんと文藝春秋さんから進捗伺いのメールが届く。両社とも年内中が締切だが、実質印刷所は28日が最終日であるため、こうした確認は必須となる。当方、年内中には必ず仕上げる旨を平身低頭しながら返信する。
 17時、インストーラーのN社長と社員二人が到着。書斎にあるプロジェクターの交換に取り掛かる。工事中は書斎が使えないので執筆をしばし中断。ただし執筆の手は止めていても考えごとはできるので、新作長編のプロットなどを練り始める。プロットの主軸は言うまでもなく、誰をどんな動機でどのように殺害するかであり、その隣では妻が息子や娘と談笑している。一種異様な孤立感を味わうが、これもこういう因果な仕事を選んだ報いである。
 取り換え工事終了後、ブルーレイの作品を片っ端から観る。隅々までピントが合い、極上の画像。しばらく見とれているうち、あっという間に2時間が経過。まずい、仕事しなきゃ。

12月28日

 レイア姫、キャリー・フイッシャー逝去。享年60歳。
 何てことだ。また往年の映画スターが本当の星になってしまった。いったい12月というのはいつもこんな風に有名人がばたばたと鬼籍に入るような印象がある。そんなことまで急ぐことはないのに。
 映画館で大きくなったという自覚がある。映画に教えてもらい、映画に支えてもらったという恩がある。だからこそスクリーンで慣れ親しんだスターの死は殊更に応える。銀幕で活躍していた頃もあまり見掛けなくなった頃も、傷害や浮気やクスリなどで晩節を汚す人もいた。しかし大部分のファンにとって、そんなことは些末事に過ぎなかった。彼、あるいは彼女の演技・表情・そしてオーラが健在であればそれでよかった。無論一般人には致命的な汚名ではあったのだけれど、彼らにしてみれば汚名すらもアクセントに過ぎなかった。スターというのは元来そういうものだった。たった一度のスキャンダルで消えてしまうようなスターはスターではない。ただの星屑だ。
 傷心に駆られてという訳ではないが『スターウォーズ エピソードⅣ』を観賞していると年賀状をまだ一枚も書いていないことに気づく。大慌てでハガキを買い求め宛名を印刷し始める。今年は仕事関係だけで50枚。齢をくう度に年賀状の枚数が増えていくのは、もう何かの祟りだとしか思えない。
 やっと宛名印刷が終わったと思ったらKADOKAWA・Fさんより原稿督促のメールが届く。間に合うのか、自分。

12月29日

 朝方、ようやく「文芸カドカワ」連載用の原稿を脱稿。すると直前に担当者Fさんからのメールが届いているではないか。
『文芸カドカワの公式サイトに掲載する著者コメントを今月もう一度いただけますでしょうか。100字~200字でお願いします』
 殺す気なのだろうか。
 本日が仕事納めということもあり、各社からメールで挨拶あり(必ず締め切りについて釘を刺されているのは仕様だ)。そう言えば、個人的に仕事納めというのはこの5年間で一度もなかったなあ。家族が大晦日の番組を観ている隣で原稿を書き、近所の神社へ初詣に行った後も書き続けていた。
 少しだけ休もうと2時間だけ横になる。うつらうつらしてきたところで、まだ文藝春秋さんのやり残しと宝島社さんの100枚が残っていることを唐突に思い出して跳ね起きる。明日から正月明けまで、各担当者さんは正月休みに入る。我々物書きはその間に遅れていた仕事、頼まれていた仕事を一気に片づけなければならない。
 18時、親子で鍋を突きながら昔一緒に映画館に行った話に花を咲かせる。僕はあまり褒められた父親ではないのだけれど、子供たちを映画好きにし、とにかく気になった映画は必ず映画館で観るように育てたことは上出来だったと思っている。不思議なことに長男も長女も、初めて映画館の暗闇に呑み込まれた時にひと言も発せず、落ち着いていた。父親のDNAだろうか。特に息子などは筋金入りの映画ファンとして真っ当に歪んでおり、小学校に上がる前から好きな俳優はデニス・ホッパーとゲイリー・オールドマンという渋いラインナップだった。
 最初に映画館で観た映画はなんだったのか、という話だけで相当盛り上がる。感心するのは2人とも、傑作ばかりを勘で引き当てて観ていること。
「ポスター見ただけで、面白いか面白くないか分かっちゃうんだよね」
 これは本読みにも当て嵌まることだろう。本読みは平台に置かれた本の表紙を一瞥しただけで、面白いかどうか、自分の好きな本かどうかを感知してしまうのだ。
 もちろんこうなるまでには、幾千もの駄作を味わわないといけないのだけれど。

12月30日

 『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』を読む。まず書籍の厚さと重さにびびるが、内容の濃さで更に圧倒される。こんなもん1時間やそこらで読めるか。読破を諦めて執筆に戻る。
 しばらく書いてからある同業者さんのツイートを覗く。有名な人気作家さんなのだが、映画の製作に関わり、オリジナル脚本を手がけたのだと言う。シナリオ学校に通ってまで書いた脚本は全ボツ。ところが出来上がった本編にはその作家さんの書いたフレーズや要素が生きていた。これが世に出てしまうと、もう自分のオリジナルとして通用しなくなる。件の作家さんはプロデューサーに抗議したのだけれど、結局は泣き寝入りするしかなかったとのこと。
 契約内容云々という意見もあるだろうが、それ以前に信用問題なのだと思う。僕は幸運にもそうした目に(まだ)遭っていないのだが、かの世界で類似の事案は山ほど小耳に挟んでいる。その全てが噂という訳ではあるまい。
 今年、2016年は邦画にとって奇跡の年だった。その奇跡をもたらした数々の映画は邦画界の悪しき慣習から脱却できたために完成した一面がある。そういう年だったにも拘わらず、一部ではこうした昔ながらの悪習がはびこっているのが残念でならない。

12月31日

 家の中はいつも家内がこまめに掃除をしているため特に大掃除をすることもなく、執筆を続ける。やはり年内中に仕事を終えるのは無理だった。夕方親子で食事をし、僕と息子だけは更に年越しそばを食べて一年を締めくくる。
 皆さん、よいお年を。

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