11月12日

 前にも書いたが、長編・中編・短編・掌編では使う筋肉が違ってくる。出来不出来はともかくとして、僕は短編を書くのが結構得意だ(因みに色んな人の話を総合すると、100枚までが短編、350枚までが中編、それ以上が長編の括りであるらしい)。100枚の短編なら10時間も考えていればプロットが出来上がるので、後は書くだけだ。留意すべきはただ一点、キレがあるかどうか。実際、キレの有無だけで短編の出来は九割方決まってしまうのではないか。
 18時、テアトル新宿にて『この世界の片隅に』を観賞。なんて静謐で雄弁な映画なのだろうと思う。後半なども爆撃の音は絶えないのに、全体のトーンは淡々としている。声高に叫ぶ者もいないのに、ひと言ひと言がすとんと胸に落ちてくる。ただの日常がこんなにも愛おしく思えてくる。水彩画のような淡い色合いなのに画面から一瞬たりとも目が離せない。終演後は多くの拍手が起こった。今年、邦画は本当に豊作だ。奇跡の年なのではないのかとさえ思える。
 ロビーに溢れ返った観客からは静かな感動が漂っている。何故、芸能マスコミがこの映画の良さについてもっと報道してくれないのだろうかと不思議に思う。魅力溢れる新進女優さんと才気溢れる映画監督が素晴らしいものを創ってくれた。しょーもないスキャンダルを追うくらいだったら、この映画の宣伝をガンガンやってくれんもんだろうか。テレビ局とタイアップしていない映画だからニュースにできないというのなら、こんなに狭量なことはない。いや、だからさ、本当に社会現象になるような映画なんだったら。こういう映画はマスコミでも口コミでも何でもいいから使って、ヒットさせなきゃダメなんだったら。

11月13日

 新しい原稿よりも先に『テミスの剣』文庫版のゲラを片付けてしまう。こちらは30分で終了。すぐヤマトさんに持って行ってもらう。次に送られてきた深見さんの新刊のゲラ原稿を拝見する(自分の仕事より他人様の関わる仕事を優先するのはビジネスの決まりごとだ)。こちらもほどなく終了、自分の原稿に戻る。
 今回、〈法廷ミステリー〉という括りでアンソロジーに組まれる一編になる予定だが、それだけではもったいないので岬シリーズのスピンオフにすることとする。これならアンソロジーとして組まれた後も『どこかでベートーヴェン』の巻末に収録すればお客さんが喜んでくれるからだ。
 その昔、筒井康隆さんはある先輩作家さん(確か星新一さんだったと思う)から「短編を書く場合には、将来一冊の自著になった時の収まり方まで考えておくべきだ」と教えられたという。深く深く首肯するものである。

11月14日

 10時、喫茶店にて双葉社Yさんと打ち合わせ。『翼がなくても』ゲラに数カ所表記の揺れがあったとのこと。5分で修正。これで正真正銘、作品は僕の手から離れることになる。
 原作が双葉社さんということもあり、『この世界の片隅に』の感想を縷々述べる。熱心に褒めてばかりなので、傍から見たら関係者に見えるかも知れない。
「いやあ、実はまだ観てなくって……」
 社命だと思って劇場へ行ってください。
 自分で喋っていて昂奮してきたので、つい原作本と公式ガイドブックを衝動買いしてしまう。ついでに息子と娘と知り合いの書店さんにも劇場観賞を勧めてしまう。そしてまたついでにテアトル新宿へ出掛けてチケットを買ってしまう。
 11時、KADOKAWAのKさんと待ち合わせるが、約束の時間を過ぎても現れない。どうしたことかと思っていると会社を通じて「10分ほど遅れます」とのこと。実際10分後に来られたのだが、何と乗っていたタクシーが事故を起こしたらしい。早速ゲラと推薦文三種を渡し、簡単な感想を述べておく。簡単な感想だと思ったのだが、気がつくと20分を越えていた。何故だ。
 12時、歯医者に赴く。
「あー、奥の歯は縦に罅割れができてますね」
「ひ、罅割れ?」
「縦にできちゃうと何かの拍子で崩壊します。思い切って支柱部分を残して除去してしまいましょう」
 がががががががががががが。
 少々、虚脱状態になっているところ、祥伝社のNさんより電話。プロットは大筋でOK。ただし専門的知識に立脚したプロットなので、確認のため1日時間をくれと言う。
 あのう、提出した本人にそんな専門的知識は1ミリもないんですけど。

11月15日

 16時、執筆途中に連載原稿についてある出版社さんから修正依頼が送信されてきた。眺めればどれも細かな修正なのだが、中に一点だけ熟考せざるを得ないものがあった。
〈目明き千人、盲千人〉という諺が差別的なので取ってほしいとの内容だ。話の中では高齢者が〈ものの道理を分かっている者も存在する〉ことを相手に伝えているのだが、浅学な僕は諺まで使用不可とは思っていなかったのだ。
 唐突に打ち明けるのだけれど、僕は片目がほとんど見えない。小学生の頃、専門医に診てもらったら視力は0.001と言われた(コンマ100位だ!)。乳飲み子の頃、えらい病気に罹り、幸い一命を取り留めたものの視力障害の後遺症が残ったらしい。視力0.001というと光は辛うじて感知できるが輪郭が摑めない。お蔭で体育は基礎体力を競うものなら何とかなったが、遠近感を必要とする球技は全く歯が立たなかった。片方の視力だけでは物体を立体的に捉えることが困難だからだ。しかしこれは強がりでも何でもないが、片目が不自由なくらい苦でも何でもなかった。日常生活に支障がある訳でなし、自分では個性の一部くらいにしか考えていなかったのだ。
 もちろん差別めいたものはあった。高校の時だったか、僕の不具合を知ったクラスメートが太陽光線を鏡で反射させ、僕の見えない方の目に当てたのだ。
「どうだ。見えるか」
 そのクラスメートは学年の成績が一番で背も高く、バスケ部の選手で人望もあった。僕もいいヤツだと思っていたので、いささか驚いた。
ああ、これが差別というものか――と実感した瞬間だった(実は、このエピソード、『どこかでベートーヴェン』という作品でちゃっかり使用させてもらった。転んでもタダでは起きないのは本当に嫌な性格だ)。
 だが不思議なことに怒りとか憤りは全く感じず、むしろ人間の二面性が見られて得したような気分になった。
 こういう身上なので差別される側の感情もわずかながら知っているつもりだ。だからこそ〈たとえ諺であっても、差別を匂わせる言葉は一切許さない〉と声高に叫ばれると少し困惑してしまう。無論、差別語を推奨したり助長させたりするつもりはないが、諺までを狩っていいものかどうかよく分からない。差別の本質は言葉ではなく、気持ちにある。言葉だけを狩ったところで差別感情がなくなる訳では決してなく、むしろ言葉を隠すことによって面倒な対応を誤魔化しているように受け取られかねないのではないか。
 お世話になっている出版社を困らせる気は毛頭ないのだが、さてどうしたものやら。

11月16日

 執筆途中、本日が「Jノベル」の締切であることに気づき、慌てて実業之日本社Kさんに連絡、2日ほど待ってもらうことにする。
 今回、連載中の『ふたたび嗤う淑女』はある思いつきを試している。全く別の連載『笑えシャイロック』ともども同じ新興宗教の内部を、別の角度で描いてみようと思ったのだ。どうも宗教立の大学で学んだせいか、僕には新興宗教を斜に構えて見てしまう癖があって、早い話がおちょくりたくって仕方がない。いや、宗教自体には敬虔な気持ちなのだが、それが宗教団体というかたちを取った時点で歪んだ見方になってしまう。宗教法人は色々と非課税であり、商売として旨味があるのも偏見の一助になっているのだろう。
 今から30年ほど前、先輩に連れられて京都は先斗町に呑みに行った。先斗町は東京で言えば銀座のような場所で、まあどこもお高いと先輩は言う。
「京都で金持ち言うたら坊さんとヤクザしかおらんやろ。せやから今から行く店も客筋は坊さんとヤクザだけや」
 で、十人も入れば満員のその店に入って困惑した。
 客の全員がスキンヘッドで見分けがつかなかったのだ。

11月17日

 結局寝ずに執筆していたのだが、今日は『セイレーンの懺悔』で書店訪問の予定が入っているので、中断して東京駅に向かう。
・丸善丸の内本店さま
・八重洲ブックセンター本店さま
・三省堂書店有楽町店さま
・文教堂書店浜松町店さま
・ブックファースト アトレ大森店さま
・ときわ書房本店さま
 どうもありがとうございました。
 二軒目に八重洲ブックセンターさんに伺った際、光文社K編集長・Sさんと出くわす。何と僕よりも先に宮内悠介さんの新刊『月と太陽の盤』で訪問予定があるとのこと。僕たちは予定時間より大幅に早く到着していたので、まだ宮内さんが来られていないのをいいことに、順番を奪ってしまう(何てヤツだ)。サイン本を作り終えた頃、宮内さんが到着。僕からすれば偉丈夫のような体格だが、とても物静かな方でそのギャップに少し戸惑う。
 とにかく11月は著名な作家さんが相次いで本を出す時期なので、よくこんな風にニアミスを起こす。本日二回目のニアミスはラストのときわ書房さんで発生。時間よりずいぶん早く伺うと、何と先客があの戸川安宣さんとのこと。僕らの世代では生きる伝説のような方だ。店員さんが躊躇するのも構わず(本当にヒドいヤツだ)、バックヤードに突進しサイン中の戸川さんに無理やり挨拶する。それどころか、既にサイン済みの新刊『ぼくのミステリ・クロニクル』を奪い取り、「これに為書きしてください!」と、これまた無理に僕の名前を書いてもらう。もはや何の用件で書店訪問しているのか分からなくなってくる。
 こうして怒濤の1日目が終了。直ちに事務所に戻り、原稿の続くを書く。
 どうせ今日も徹夜だ。

11月18日

 また一睡もすることなく、書店訪問2日目を迎える。
・紀伊國屋新宿本店さま
・ブックファースト新宿店さま
・ジュンク堂書店池袋本店さま
・三省堂書店池袋本店さま
・三省堂書店神田神保町本店さま
 どうもありがとうございました。
 今回、サイン本の間に挟む合紙として、今後の刊行予定を印刷したものを使用した。2021年までの予定をいい気になって書き連ねており鬼が笑うどころの話ではないのだが、こうして特定多数の方に発表してしまった段階で、もうこれは絶対に書かざるを得なくなった。僕は本当に怠け者なので、こうして自分を追い詰めないととてもやっていられないのだ。
 18時、息子と待ち合わせて『この世界の片隅に』を観賞。まだ二十代前半の息子には戦時中のあれこれがなかなかぴんとこなかったらしいが、それでもいい映画だというのは分かった様子。
「きっとさ、俺がもう少し大人になったらこの映画の魅力が全部分かるんだろうね」
 それでいい。感想なんて無理に吐き出すものではない。その時には気づかなかったことが、後になって記憶の襞から甦り感情となって爆発することだってある。いい映画というのはそういうものだ。
「でもさ、きっと二回目観ると思うよ、俺は。あれはそういう映画だ」
 二人で酒を呑みながら今年観た映画について語り合っている途中、ふと、ああきっとこういうのが幸福なのだろうなと思った。

11月20日

 目が覚めたのは午前7時だった。
 連載用の原稿を書き終わったのが19日の午前8時。一段落したので小休止しようと目を閉じたのが悪かった。椅子に座ったまま23時間も眠り続けてしまった計算になる。
 アホか。
 これでは3日連続の徹夜も意味がないではないか。失われた1日を返せ。
 慌てて書き終えた原稿を担当者さんに送信し、すぐ『笑えシャイロック』に着手する。今月はこの他にも『静おばあちゃんと要介護探偵』100枚、「小説宝石」新連載50枚、「小説NON」新連載50枚、あああ、それから法廷ミステリー100枚がまだ残っているのだ。死ぬ。絶対に死ぬ。
 心を落ち着かせるため、池袋HUMAXシネマズで『この世界の片隅に』を観賞(仕事せえ、仕事)。

11月21日

 11時、喫茶店にて朝日新聞出版Yさんとゲラ修正。100枚ぽっちの原稿なのに修正に15分も費やしてしまう。情けない。
 昼飯時なので場所をカレー屋さんに移し、出版界について雑談。とは言え当然僕が振る話はヤバめのものがほとんどなので、Yさんの表情は終始曇りがちになる。最近、担当編集者さんたちがこの日記連載を知り、「中山の前では下手なことが言えない」と警戒しだしたらしい。ところがこっちはそういう人からヤバい話を引き出すのが何よりの娯楽なのだ。けけけけけ。
 Yさんは『この世界の片隅に』未見とのことだったので、強く勧める。著名な作家さんが既に観賞済みなので、担当編集者が未見だと話が合わなくなりますよと脅しておく。本来、こういうことを無理に勧めるのは性に合わないのだけれど、テレビでは全くと言っていいほど宣伝も報道もしないのでは、こうした口コミが頼りになる(僕はSNSをしていないので口コミしかできない)。監督を含めたトークショーの場では、この映画がヒットしたら困る人間もいるとの話も出たらしい。
 こういう話を聞くにつけて情けなくなり、僕が抵抗できるのは映画の価値を拡散し、足繁く劇場に通うことしかないのだと実感する。実感したので、更にチケットを五枚ほど購入しておく。自分用もあるが布教用も含んでいる。声が出せないのならカネを出す。カネが出せないのなら声を出す。それが応援というものだ。
 これほど評判の映画を、21日現在まだテレビは黙殺している。テレビ離れが進んでいるというのに、この上自ら拍車をかけるつもりなのだろうか。

11月22日

 南雲堂さんから小包が到着。何かと思って中を開くと、おおお島田荘司さんから『島田荘司全集Ⅶ』のサイン本が送られてきたではないか。サイン会当日は別件があり泣く泣く断念していたのでこれは思いがけないプレゼント。嬉しさのあまり床を転げ回り、ついでに窓を開けて雄叫びする。
 13時、某担当者さんと打ち合わせ。その中で文芸誌の電子書籍化に話が及ぶ。老舗文芸誌や新興「小説幻冬」などの例外はあるものの、文芸誌は軒並み電子化へ移行している。そして薄々気づいていたのだが、電子化になった際には文芸書評のコーナーがなくなっていることが多い。
「それはですね、中山さん。書評の需要がなくなっているからですよ。ネットで作家さんの連載を読んでみようという人はいても、書評なんか読む人はいません」
 しかし書評家の豊崎由美さんも仰っている通り、小説と評論は両輪ではないのか。
「それでなくてもネットには素人さんの書評が溢れ返っているんですから。以前は文芸誌にも結構ネガティヴな書評があって面白かったんですが、最近はそういうのがめっきりなくなってしまって。そうするとですね、これは作者と書評家がなあなあの関係じゃないかって読者に思われて関心が薄れたんですよ」
 僕などはまだまだ書評には力があると思っていたので、次の言葉は結構衝撃だった。
「だってね、中山さん。新聞や文芸誌二十誌以上から書評に上げられているあの『〇〇』という小説、刊行から半年近く経っても未だに重版されていないんですよ。はっきり言って書評家さんの長文より、タレントさんの一ツイートの方がはるかに訴求力があるんです。だから最近、ウチではプルーフやゲラを書評家さんに送らなくなりましたもの」
 僕は考え込んでしまった。もちろん本は売れればそれでいいというものではない。何らかの事情で埋もれてしまいそうな良書を発掘し、鑑定し、新しい価値を付与する書評の仕事は絶対に必要だと思っている。しかし一般の人がプロの手になる書評に目を向けなくなり発表の場が失われたら、いったい書評の存在意義はどうなってしまうのか(いや、余計なお世話なのは分かってるんだけどさ)。このままではタレントさんに書評を依頼するか、書評家さんたちがタレントになるかしか……。
 待てよ。
 大森望さんや香山二三郎さんたちがアイドルにハマっているのは、いずれ自分たちで書評家アイドルユニットでも結成する布石なのじゃないのかしら?

11月23日

「小説NON」12月号の見本誌が届く。ぱらぱら捲っていくと、次号予告の最上段に僕を含めた四人の作家さんが〈始動カルテット!〉として紹介されている。
「ヒポクラテス」シリーズ海外へ!
 煽り文句は素晴らしいです、はい。
 問題は、その新作がまだ着手もされていないこと。つまりこれは見本誌という名の督促状というか脅迫状なのである。ひいいいいい。分かりました。今すぐ、今すぐ書きますから!
 さて、今日の読売新聞にこんな記事が載っていた。
『全国の出版社などが加盟する日本書籍出版協会の文芸書小委員会は22日、公共図書館での文芸書の取り扱いについて配慮を求める要望書を、全国約2600館の公共図書館の館長あてに送付した。図書館に要望書を送るのは異例だという』
 この件については過去にも日本推理作家協会やら日本文藝家協会やらが何度も申し入れをしているにも拘わらず、図書館側が黙殺し続けたという経緯がある。つまり図書館でベストセラーを何冊も貸し出していることと文芸書の売り上げ減には何の因果関係もないとの主張だ。これは互いが互いの利益と権利を護ろうとしているから平行線になるのは当然だ。そして一冊あたりの疲労度を考慮してベストセラーは副本を用意しなければ、という図書館の主張も分からなくもない。
 しかしいくら限られた予算とは言え、郷土史料や一般では入手困難な専門書を後回しにしてでもベストセラーを大量購入するのは本当の市民サービスなのだろうか。図書館の存在意義とは知の財産の保管であり、安易なサービスの提供などではないのではないか。僕は出版社側から実名を聞いているが、もう少しで重版がかかるところを図書館での利用が多くて踏み切れなかった例は確実に存在している。そして利用者数を増やしたいがために図書館は史料価値のある書籍も購入せずにベストセラーを大量に仕入れ、無料の貸本屋に堕している。
 はっきり言おう。そんなものは市民サービスでも何でもない。ただの民業圧迫だ。
 出版社は何やかんや言っても儲けているから図書館が多少利益を圧迫してもいいだろう、などというのは見当違いも甚だしく、今まで出版社が利益を得てこられたのは雑誌とコミックの売り上げに助けられていただけに過ぎない。ところがご存じの通り雑誌は休刊廃刊が相次ぎ、コミックもネットカフェや違法ダウンロードのためにさっぱり売れなくなった。今やどんな大手出版社が潰れても不思議ではない。だからこそ普段は商売や交渉事が苦手なはずの物書きたちが真剣に要望し、声を上げ、解決の道を探っているのだ。
 こんなことが続いていたら、いずれ作家や出版社のサイドが最後の手段に訴えるかもしれない。今回の要望書はその前兆になる可能性を孕んでいる。今のうちに図書館側が話し合いのテーブルに着いて解決しなければ、やがて作家も出版社も斃れ、図書館には古書しかなくなる――そんなディストピアだって充分あり得るのだぞ。
 以前に書いたことを繰り返す。
 お気に入りだった作家がいつの間にか新作を発表しなくなった。
 贔屓にしていた文芸出版社が民事再生を申請し、文芸書を一切出版しなくなった。
 楽しみにしていたシリーズが尻切れトンボのまま終わってしまった。
 それは何故か。
 あなたがその作家の本を買わなかったからだ。

11月24日

 朝から雪。東京で11月の初冠雪は54年ぶりとのこと。その後積雪となり、これは観測史上初と発表される。屋根のあるところで仕事ができて嬉しくなるのはこんな時だ。
 13時、神保町〈新世界菜館〉にて実業之日本社Kさんとゲラ修正。5分で終了。ここでも『この世界の片隅に』の話をすると、「観に行くつもりなんです」とのこと。意外なことにクリエイター系の方々は早くから試写会や劇場に足を運んでいるのに、出版関係の方はまだまだの様子。いや、この映画はさ。『シン・ゴジラ』と同じくこれからの作劇はもちろん、エンタメの概念さえ変えてしまうような作品なんだから観ないと損なんだったら。
 話しているうちにいつもの悪ノリが発病。よせばいいのに勝手なことをほざきまくる。
「あのですね、実業之日本社さんでも文学賞を創設したらどうですか。『東野圭吾新人賞』なんてどうっスか。WEB投稿にして全作を閲覧可能にして、最終選考でも選考委員の選んだ作品と読者が選んだ作品二本立てで発表するんです。面白いと思うんだけどなあ」
 半分冗談だったのだが、半分は本気だった。案の定、Kさんは困ったような顔をして黙ってしまった。
 事務所に戻ると「小説宝石」12月号の見本誌が届いており、つまりこれは見本誌という名の以下同文。

11月25日

 10時、執筆に飽きてきたのでユナイテッド・シネマ豊洲にて懲りもせず『この世界の片隅に』を観賞しにいく。実はこの小屋に訪れるのは初めてなのでうきうきしている。と言うのも、僕は方向や場所を憶えている方なのだがこれにはコツがあって、まず映画館をランドマークにしてからその東西南北で記憶するという方法だ。一番興味のあるものが中心になるので、これは本当に忘れにくい。そして初めての劇場に入る時は何というか遠足前夜の園児状態。
 この劇場は現在都内で『この世界の片隅に』を上映している小屋の中では最大級のスクリーンを誇る。僕は前から五列目の席を予約した。こうすると視界全てをスクリーンで覆うかたちとなる。何故この映画は不思議な感動をもたらすのか、細部に亘って検証してやろうという試み。感動を言語化できずに何が物書きか。しかし、いやあすごかった。キャラクターの指先の動きから歩き方、笑い方までを具に見ると自分の感動ポイントが面白いように理解できる。箸を持ち替える、ちびた鉛筆を回しながら削る、半歩ずつ摺り足しながらモッコを運ぶ。どの動きも実写のようだから従来のアニメになかったリアリティを獲得している。二度三度と劇場に足を運ぶ人はみんなこんな状態になっているんだろうなあ。
 16時、集英社のTさん、Nさんと新連載の打ち合わせ。先方の要望はサイコVSサイコ。フレディVSジェイソンみたいなものか? それともキングコング対ゴジラか? あまり深く考えずに応諾。本来こういうのはユーモアホラーでなければ設定が困難な話なのだが、集英社さんはユーモアをちりばめつつガチのどんでん返しミステリを書けと言う。それはいったい、どんな話なのだろう。
 それからまたぞろ『この世界の片隅に』を執拗に勧める。Nさんは既に観賞済みなので二人でTさんを責め立てる。
「創作に携わっている身でありながら!」
「担当編集者さんの中には見学として、平日一番で劇場へ行った人もいるというのに!」
「知り合いの作家さんはほとんど見終わって熱烈なツイートをしているというのに!」
「今この場で全部ネタバレしてやる!」
 軽いイジメである。
 17時、岐阜から来た妻・大阪から来た娘・そして息子と合流して会食。子供が成人すると家族全員揃う機会がなかなかないので、何とかこういう会食をするように心がけている。しばらくは近況報告などしていて息子が「結局、また『この世界の片隅に』を観に行った」と報告したので少し嬉しくなった。だが、別の話で思わず口の中のものを噴いた。
「大学の論文問題でさ。まず音楽関係者三人の著書から一つを選ぶんだけど、小澤征爾さんと小林研一郎さんの著書に並んでお父さんの『さよならドビュッシー』が挙がっていた」
 えっとですね、皆さんは何かとんでもない勘違いをしていらっしゃいます。あの、僕は小学校の頃から音楽の成績はずっと2で……。

Twitter Facebook