それから十二年後、『人間失格』を三回に分けて発表しながら入水自殺した彼がみずからの死を思う過程で、かつて芥川賞があれば「どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます」と書簡にしたためたことを思い出したかどうかは、むろん定かではありません。ただ、同時期に書かれて死後発表されたエッセイ「如是我聞」の最終回で、かつての川端と同様に自分を蔑んだ志賀直哉に向け、「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである」と書いていた以上、太宰の心に芥川の名前がありつづけたことだけはたしかでしょう。
 
 さきほどまでは太宰の例を見てきましたが、作家にも、時代性はもちろん、個人差もあります。現代の芥川賞候補者たちも選考会当日は、ひとりで自宅で待つ者あり、気心の知れた友人・知人と酒食を共にする者あり、候補作の担当編集者たちと会社で過ごす者ありとさまざまですし、「受賞の瞬間」を取材したいテレビや新聞などのメディアと一緒のこともあります。
 
 いまから四半世紀前、一九八二(昭和五十七)年に『消えた煙突』で第八七回芥川賞候補になった平岡篤頼は、フランス文学者であると同時にジャーナリスティックな批評家・編集者でもあった彼らしく、テレビのドキュメンタリー番組で落選の瞬間までも公開していましたが、それはあくまで稀な例。

「とってもとれなくても作品の価値は変わらない」と賞に過大な期待をしない者であっても、「落ちましたよ」と聞かされる瞬間は快いとは言い難いでしょうし、そんな当人が周囲の居心地の悪そうな感じに気をつかったり偽悪的に荒れてみせるのも、なんとも気の毒な感じがします(とはいえいまなら、みずから進んでUstreamなどでネット中継するひとも出てくるでしょうから、それはそれでおもしろいショウになるかもしれませんが)。
 
 少し前といまとで変わったといえば、昔は「当落の電話が、文藝春秋の担当編集氏の声であれば落選(そのあと選考経過や慰めの会話がひとしきり)、話したことのない日本文学振興会の年配のひとの声だったら受賞(お祝いの言葉のあとに、ハイヤーで記者会見会場に来てくださいとの伝達あり)」と言われたものが、いまは携帯電話のディスプレイに発信者番号が出てしまいますから、「携帯番号なら編集氏個人からだから落選、知らない固定電話からだったら受賞」と、かかってきた瞬間にわかってしまうこと。クジを開く前に当たりハズレがわかってしまうようなものでちょっと味気ないですが、選考会場で待機していた記者からWEBに流れた速報を見て、公式の連絡より先に友人が電話をかけてきたりするのもネットワーク時代ならではですから、そうそう油断もできません。
 
 とはいえ、こんな騒ぎになるのも、先ほど書いたとおりある時期以降の話。たとえば一九五一(昭和二十六)年下半期、第二六回の受賞者・堀田善衞は、「銓衡会のあった夜の、そのあくる朝の新聞を読んで知ったものであった。当時私は電話ももっていなかった」と後に回想しています(「別冊文藝春秋」一九七五年六月号)。
当時のそんなスピードは、いま読めば、自分の死亡記事を朝刊で見るにも似たのんびり加減です。
 
 今日だと、ぶじに受賞が決まれば一時間後には受賞記者会見の会場にいて、そこからは前々節に書いたようなお祭騒ぎ。後に同じ会場で行われる授賞式までのひとつきを、何倍、何十倍もの取材や依頼を受けたり断ったりしながら過ごすことになります。
 
 受賞者にとっていちばん大きいのは、「芥川賞作家」という肩書がつく結果、小説を発表する機会がそれなりの期間保証されることですが(なにしろ、受賞直後にきた依頼をこなすだけでも、筆の遅い書き手であれば何年もかかったりするのですから)、それに加えて、そんな騒ぎに二度と巻き込まれなくて済むことだったりします。
 
 自分から投稿して審査される多くの公募新人賞や、詩歌や地方の文学賞によくある「自薦も可」の賞とは違い、芥川賞や直木賞の場合は候補作を主催者側が決め、作者には「候補にしてもいいですか? 決まったら辞退できないので、断るならいまお願いします」的な連絡が来るシステムです(実際の手紙はもっと丁寧ですが)。

 落選した側からすれば、頼んだわけでもないのに候補にされて(もちろん、太宰のように頼み込んででも候補にしてほしいと願う書き手もたくさんいるわけですが)、選考会でああだこうだとまな板に載せられ、ときには選評でひどい罵詈雑言を投げつけられて「この作品は賞に値せず」と言われるわけです。それも、「受賞したときのための」取材やコメント依頼をこなしたうえでの話ですから、たまったものではありません。

 のちに選考委員を務めた開高健ですら、遠藤周作との対談で「「受賞の感想」というものを、なにもきまっていないうちから書かされちゃうんですからね。『貰ったと思って書いてください』なんて。それを候補者みんな、やるでしょう。落ちたら悲劇ですよ」とコボしています。初回や二回目の候補ならともかく、何度もそんな目に遭うと、「いいかげんにしてくれないかな」と思うひともいるでしょうから、解放されてやれやれという気持ちになるのもわかります。

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