とはいえ、芥川賞が誕生した当初は、それとはまったく逆の状況がありました。
「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか」を検討する前に、もう少し、賞そのものについて見てゆきましょう。芥川賞と直木賞を考案・創設した、作家であり「文藝春秋社」の創立者でもある菊池寛は、エッセイのなかでこんなふうに書いています。
 
 芥川賞・直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があつたのには、憤慨した。そのくせ、二科(二科展 引用者注)の初入選などは、写真付で発表してゐる。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者と、たつた一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云つても、新聞価値があるか。あまりに没分暁漢【わからずや】だと思つた。(「文藝春秋」一九三五年十月号)
 
 マス・メディアと広告代理店さらには流通とが結びついて、もっとも効果的な宣伝広報が模索される今日の大量消費社会と違い、「新聞社の各位も招待」するぐらいが戦略的工夫だった素朴な時代の話ですから、記者諸氏もとんと冷淡なもの。自身の価値判断や慣習に従って「一行も書いて呉れな」かったりするわけで、そんな状況から芥川賞がどうメジャー化したかは後の章にまわすとして、ともあれ、芥川・直木賞の始まった一九三五(昭和十)年は、そんな時代でした。

 第一回の芥川賞受賞者、『蒼氓』を書いた石川達三がベストセラー作家になるのは、受賞から三十年後の一九六八(昭和四十三)年。実在の事件をモデルに日米安保闘争直後の学生を描いた『青春の蹉跌』によってですから、芥川賞が社会的な影響力を持つには、まだ時間が必要だったわけです。
 
 とはいえ、菊池寛が「半分は雑誌の宣伝に(…)半分は芥川、直木という相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の台頭を助けようという公正な気持ち」で始めた両賞は、「芥川龍之介賞は個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若しくは新進作家の創作中最も優秀なるものに呈す」、「直木三十五賞は(…)大衆文芸中最も優秀なるものに呈す」とそれぞれ宣言・規定されましたので、候補にあがった作家たちは、みずからこそが「最も優秀」でありたいと願ったのも自然なこと。『人間失格』や『走れメロス』で知られる太宰治が、当時選考委員だった佐藤春夫に送った有名な手紙に、その心情がよくあらわれています。
 
 拝啓 一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません。物質の苦しみがかさなり死ぬことばかりを考へて居ります。(…)私はすぐれたる作品を書きました。これからもつともつとすぐれたる小説を書くことができます。(…)芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます。元気が出ます。お笑ひにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。
 
「すこしの誇張も申しあげません」と冒頭に書きつけるあたり、かえって手紙文ゆえの心情の誇張を想像させなくもないですが、ともあれ、そのように旧知の年長者である選考委員に懇願せずにはいられなかったことは、第一回芥川賞の候補に挙がりながらも「入社試験に落ち、鎌倉の山で縊死を計って失敗、つづいて盲腸炎で入院したが、鎮痛のため用いたパビナール(中国とイギリスとのあいだで生じた「阿片戦争」の原因かつ名前の由来ともなったアヘン〔アヘンアルカロイド〕を主成分とする鎮痛剤 引用者注)のため、のちのちまで中毒に悩むこととなった」(永井龍男『回想の芥川・直木賞』)私生活が、「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた」(川端康成の選評)と、文章を乱しているとされ落選した太宰の、落胆と渇望とをあらわしています。

 右の佐藤春夫あて書簡に先立って太宰は、川端に向け、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さう思つた。大悪党だと思つた」という文章を発表したくらいですから(「川端康成へ」)、当時すでに『伊豆の踊子』や新聞小説『浅草紅団』などの秀作を持ち、当の昭和十年には
『雪国』の発表を開始、新感覚派の旗手として文壇の中心となりつつあった十歳年嵩の川端康成が右のように評したことは、太宰にとって、作品と実生活の両面を全否定されたように感じられたに違いありません。

 そんな太宰の切々たる願いも空しく、翌年の第二回発表は「受賞作なし」、第三回に至っては「過去に候補となった者は候補としない」旨の規定が設けられ、太宰治があれだけ望んだ芥川賞を受賞することは、ついになかったのでした。

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