9月5日

 執筆途中、三友社Mさんより電話あり。新聞連載『護られなかった者たちへ』、あと八日分について、今日中に書き上げる旨を伝える。先方はラストも近いので十日分ずつでもいいとのことだったが、やはりひと月分毎にゲラ確認した方が落ち着く。
 更に実業之日本社Kさんからも電話あり。
『来月号のJノベルから新連載開始の広告を打っていいですか』
 元より八日までに第一回目の原稿を渡すつもりだったので、僕の方に否はない。承諾して電話を切ってから、今回もまた安請け合いであったことに気づいて床の上を転げ回る。
 あああああああ、僕は何て馬鹿なのだろうか。
 何でもそうだが、時には断る勇気が必要だ。ところが新人のあさはかさで、僕にはどうしても断るという選択肢がその場では思いつかず、後になって死ぬほど後悔するという愚行を繰り返している。今まではそれが量産という結果につながったのでまだ傷は浅くて済んでいるが、今後この悪癖がどんな災いになるか知れたものではない。
 でも結局受けてしまうんだろうなあ。
 ちょうど今、『〆切本』(左右社)という本を読んでおり、これが著名作家九十人による、締め切りに間に合わない言い訳の数々。名だたる文豪たちが締め切りに怯え、編集者に怯え、白い原稿用紙に怯えている。この偉大なる先輩諸氏に共通しているのは、謙虚さと責任感だ。だからこそ弁解の羅列を読んでいても嫌な気はせず、却って勇気のようなものが湧いてくる。僕が弁解するとしたら、もっと醜悪で鼻持ちならないものになるだろう。
 こういうものを読むにつけて、やはり自分はつくづく小者だと思う。

9月6日

 名古屋駅前、ダイケンのショールームにて最新の防音ドアとやらを体験。室内で銃弾飛び交ったり、恐竜がのし歩いたりする映画を大音量で流すがドアを閉めればあら不思議。ほとんど音が聞こえなくなった。うーん、僕がオーディオ・ルームを作った頃、こんな防音性能のドアなんて夢のまた夢だったのだが、本当に技術というのは日進月歩なのだなあ。
 今週は人に会う用事があるため、そのまま新幹線に飛び乗って東京事務所に戻る。
 十七時、いつもの喫茶店で「文芸カドカワ」のFさんとゲラ修正、十分で終了。
 ゲラを直しながら、(Fさんは先日の「新井ナイト」にも来てくれていたので)『作家刑事毒島』の感想を聞いてみる。
「読んでいる最中、ずっと毒島が中山さんに脳内変換されて」
 だから、それは違うって言っているのに。
「えっと、あの、ホントに書いてあるのは実際にそのままなんですけど、やっぱり新人作家さんにお勧めはいたしかねます」
「でもKADOKAWAさんて一番賞が多いから、新人さんもその分数が多くて……」
 何故かFさんの口が重いので、今流行の「なろう」系の新人さんたちに話題を逸らす。「これは弊社の話ではないのですが」と注釈を入れた上でFさんはこんな話をしてくれた。文芸誌の主催する新人賞はも大概なのだが、投稿サイトから有望な新人作家を発掘するのは、干し草の山から針を探し出すどころかそれこそ砂丘から砂金を見つけるのにも等しいのだという。
「そんなのに経費と人員をいくら投入したって……」
「でも元々賞金を与えてのデビューじゃないから、見限るのも簡単なんですよ」
 背筋寒い。
「それとこれはなろう系に限らず新人さん全員に言えるんですけど、やっぱり地方在住の方よりは首都圏にお住まいの作家さんの方が一緒に仕事しやすいです」
 それは僕も同感だ。生まれ育った郷里で発信していく、落ち着いた環境で執筆する――作家として一つのスタイルだし、ネットで繋がるご時世で、もはや物理的な距離には何の意味もないようにも思える。
 だが、実際は違うのではないか。既に一定評価を得たりベストセラーを連発したりするような作家ならいざ知らず、デビューしたての新人が首都圏に仕事場を構えなくてどうするのか。全国の書店の七割、全国の出版社の九割が集中している場所でアンテナを張り巡らせずに、いったい何を売ろうというのか(独断)。何も生活レベルを上げろと言っているのではない。生活拠点を移せと言っているのだ(強引)。
「やっぱり、最初はお互いに顔を見て話がしたいです。これは編集者なら誰でもそう考えるんじゃないでしょうか」
 いや出版に限らず、仕事というのは全般がそうだろう。だからという訳ではないが、僕は「ああ、この人はきっと伸びるか化けるかするだろうな」と思った新人さんは、首都圏に移るようにと、お節介を焼いている。
 作業中に「野性時代」のY編集長から電話があり、「野性時代での連載は可能か?」との問い合わせ。つまりKADOKAWA二誌で同時連載という意味だ。
「いいっスよー」
 僕がいつものように二つ返事をすると、Fさんはまるで珍獣を見るような目で僕を凝視する。
「い、いいんですか?」
「いいっスよー。リクエストさえいただければ何でも書きますから」
 別れてから死ぬほど後悔する。
 あああああああ、僕は何て以下同文。
 十八時、最新刊『ヒポクラテスの憂鬱』の著者見本を取りに祥伝社に向かう。見本十冊にサインして発送手続きをお願いしておく。ここでもシリーズ三作目のプロットを十月中に出すよう約束してしまう。
 あああああああ。
 馬鹿は死んでも治らない。

9月7日

 十一時、文藝春秋社に赴き、Iさんから連載予定の『静おばあちゃんと要介護探偵』についてこんなことを言われる。
「やっぱり初回は百枚掲載ということで」
 五十枚でいいかなあ、と思っていたので正直困ったのだが、次の瞬間自分の口から出た言葉で僕自身がびっくりした。
「あ、いいっスよ。それなら百枚書きますから」
 こういう時、頭の中では冷静な自分が発言した本人を散々罵倒しているのだが、当の本人は聞く耳なんか持っちゃいねえ。こいつ、ホントに頭のネジが緩んでるんじゃねえのか。
 折角半蔵門まできたのだからと宝島社を訪れ、Sさんと話す。
「いいですねえ、『毒島』。最高っ」
 ええ、担当編集の方は皆さんそう仰ってくれるんですけどね。誰一人としてこれを他の作家さんに勧めようという人はいらっしゃらないんですよ。
「じゃあ、このミス出身の新人作家さんに勧めてくれますか」
 僕がそう訊ねても、Sさんはにこにこと微笑むだけで返事は一切してくれない。
 ついでに最近の「このミス」事情について訊いてみる。
「中山さんのデビューした頃、大賞作品は初版●万部だったので相応に利益も上がっていたんですけど最近は初版部数も落ちてきて、やっぱり三作か、それ以上にもっと頑張っていただかないと賞金分も回収できませんねえ」
 昨日に引き続き、新人賞と作家デビューに関して背筋の寒くなる話を聞いた。残暑厳しい折なのに汗も掻けなかった。

9月8日

 十時、喫茶店で双葉社Yさんと『翼がなくても』初校ゲラを修正。今回は加筆部分があったために七十分もの時間を要してしまった。恥ずかしい。
 Yさんの方から話題を『作家刑事毒島』に振ってもらう。「小説推理」の編集部で回し読みされているのだが、皆さんからウケているとのこと。
「特にですね、投稿作品の下読みのところなんかは本当にもう」
 何度も書くが『毒島』に想像の部分はあまりない。全て僕が編集者さんや同業者さんたちから聞いた実話で成り立っている。投稿で一次落ちの憂き目に遭っている人はこの先を読まない方がいいが、まず一次予選を落ちるような小説は、文章力が出来のいい高校生のレベルにも達していない。冗談でも何でもなく一ページ読み通すのが苦痛だというのだ。人物造形に至っては読んでいるこちらが赤面するか壁に投げつけたくなるという。そんな小説を恥ずかしげもなく送りつけてくる人間の精神状態を疑いたくなるという(いや、ホントに多くの編集者さんが同じことを言っているんだったら)。「そういう作品も含めて読むのが新人賞の審査だろう」とお怒りになる向きもあろうが、下読み担当の弁を借りれば「そもそも審査云々以前のレベルなので、その理屈は通用しない」そうだ。
 本日より実業之日本社「Jノベル」連載用の『ふたたび嗤う淑女』に着手。半分まで書き上げると時刻は十七時。TOHOシネマズ新宿へ駆けつけ、もう何度目か分からない『シン・ゴジラ』を観賞。ただし今回は4DXで振動やら座席移動やら噴霧やらのギミックが面白い。特に身体中が凝っていたので、背中や腰にごつごつと拳の当たるような振動がとても気持ちよかった。実はちょっと贅沢なマッサージ・チェアのつもりで観賞に臨んだのだが、大正解だった。
 折角なので二十一時より同館で『君の名は。』も観賞。何というか大林宣彦監督のあの作品と設定がよく似ていて、すっと話の中に入ることができた(今の若い観客はあの名作を知っているのだろうか)。しかも物語の舞台は僕の郷里に近い飛騨市辺りで、風景が皮膚感覚で馴染んでくる。老若男女、誰が観ても切なさ満載のストーリーで、これもまた今年の邦画の大収穫。
 帰宅後、遅ればせながら樋口毅宏さんの引退宣言なるものを知る。
 僕は自分のデビュー年を人に告げる際、必ずこう言うことにしていた。
「僕は二〇一〇年デビュー組なんですけどね。ええ、あの当たり年だった時です。窪美澄さんに、柚木麻子さんに、朝井リョウさんに、樋口毅宏さんに……チクショウ、みんな生き残っていやがる」
 同期のデビューというのはライバルというよりも戦友といった想いが強い。皆さんにはご迷惑だろうが少なくとも僕は一方的にシンパシーを抱いていたのだ。その一人が引退というのは、ちょっと応える。以前にも筆を折った同業者を何人か知っているが、今回ほど寂しいケースはない。
 誰か嘘だと言ってくれ。

9月9日

 十時、喫茶店にて三友社Mさんと『護られなかった者たちへ』のゲラ修正。十分ほどで終了。実は聞くまで知らなかったのだが、仙台とフィリピン・マニラを結ぶ直行便は現在存在しないとのことで書き直しが必要になったのだ。やれやれ、やっぱり現地に一度も行っていない弊害が出てきたか。
 連載は地方紙十四紙に到達したが、Mさんは更なる増加を狙っていると言う。因みに全国にはいったいいくつの新聞があるのか訊いてみると「およそ七十紙です」とのこと。
 つまり現在でも僕の新聞連載は全体の五分の一しか網羅していないことになる。日本はかくも広し。
 十一時、何の前触れもなく宝島社Kさんよりのど飴が送られてきたので驚く。
 何故に。
 色々と考えて思い当たるフシがあった。先日、宝島社のI局長にメールをした際、『咳をしても一人』と尾崎放哉の一節を借用して執筆中の孤独を洒落めかしたことがあったのだ。
「中山さんが咳をしているようだから、のど飴送ってやって」「はい」
 まあ、こんなやり取りだったのではないか(付け加えておくと、僕は中学以来、風邪をひいたことがない)。
 返しのシャレなのかご厚意なのか判然としないのだが、いずれにしても有難いことなので飴を舐めながら原稿を書き進める。

9月10日

 一日過ぎてから思い出したが、昨日は江戸川乱歩賞の授賞式だった。知人のツイッターを見ると多くの人が参加し、赤川次郎さんも登壇されたとのこと。あああ、出席するかどうか迷っていたのだけれど原稿が……。
 色々な出版社とお付き合いしている関係で、こうした授賞式や出版パーティーからのお誘いをよくいただくが、原稿書きが忙しくなった五年前から全く参加できていない。締め切りに追われているということもあるが、会場で担当の編集者さんと顔を合わせるのが怖いせいでもある。
「あら、中山さん。パーティーに来られるということは、もうウチの原稿は書き終えたんですね?」
 そんなことを言われたら立つ瀬がない。言われないためには会場でパソコンを開いて仕事しなければならず、それはそれで同業者さんたちから嫌われてしまう。
 では仕事を早めに片付ければいいではないかと言われそうだが、もし僕がそういうパーティーに余裕綽々で参加したとしたらどうなるか。
「見ろよ、あれ、中山だぜ」
「へへっ、前は忙しくて忙しくてとかほざいていたのに、どうだい、あのヒマそうなツラ」
「こういう場所で仕事のオファーもらおうとでもしてんのかね」
「三文文士は節操がなくて嫌だね」
「ホントにマイナーな作家はゲスいよな」(被害妄想)
 他にもこうした出版パーティーに顔を出しづらい理由があって、こうした集まりは業界内の関係者だけであるはずなのに、中には一般の人が混じっているからだ。
 たとえば乱歩賞の授賞式について言うと、これは日本推理作家協会の会員に洩れなく招待状が発送される。ところがその招待状を持参すれば関係者の同伴者ということで何名かは会員以外の人も会場に入ることができる。僕の見聞きした例では、協会員で小説講座を主宰している作家さんが生徒さんを引き連れてやってきたらしい(そんなことをする作家さんも大概なのだけれど)。
 この生徒さんたちの立ち居振る舞いが凄まじかった。受賞者と写真を撮る、サインをねだるまでならまだいいのだが、会場に用意されていた飲み物や食事をかっ食らい、挙句の果てにブログに受賞者やら関係者やらの写真を無断でアップしたらしい(この話を僕にしてくれた編集者さんは吐き捨てるようにそう言っていた。よほど腹に据えかねていたようだ)。
 言うまでもなく、こうした集まりは業界内の親睦が目的であり、原則的に部外者が立ち入るものではない。それゆえにパーティーの開催費用は協会員の会費で賄われている。要は特権云々以前に良識の問題だろう。いくら作家に憧れているとは言え、部外者が立ち入って浮かれているのは見ていてとてもイタい。
 そういうイタい人は当然、他の参加者から邪魔者扱いされているのだが当人たちは自覚がないらしく、何度も会場に足を運んでいるとのこと。そしてまた、それを呆れた目で見ている関係者各位。
 新人の誕生を寿ぐ場所の片隅に、こうしたイタい光景がある。そんな場所、居たたまれないではないか。

9月11日

 僕の住んでいるのは岐阜県なのだが、西濃地区にLCワールド本巣というショッピングモールがある。このショッピングモールの衰退ぶりが怖ろしい。かつては一〇七ものテナントがあったのに、今は一店舗のみ、しかも無人販売で野菜を売っているだけという体たらく。つまり無人店舗で野菜を売るだけのためにショッピングモールが存在し、煌々と灯りを点けているのだ。
 以前から危ないと聞いてはいたが、本日ネットにアップされた画像を見て言葉を失った。さながら真昼の廃墟のような趣きで、ゾンビが大量発生しても何の違和感もない。おそらく権利関係が錯綜しているために下手に閉館や建物撤去ができないのだろう。
 最近、岐阜を舞台としたアニメが増えた。故郷だからの欲目もあるが、自然が豊かで詩情溢れる場所だ。この地から小説家が大量に生まれているのも、土地柄と無関係と思えない。
 だが一方で、こうした荒廃があちらこちらに目立つ。何も岐阜の専売特許ではなく地方共通の問題なのだろうが、やはり実物を提示されると言葉を失う……のが真っ当な岐阜県民なのだろうが、生憎と僕は真っ当ではないため、この廃墟と化したショッピングモールを見ているうちに、ひどく陰惨なミステリーを思いついた。けけけけけ。
 何とまあ、因果な商売であることか。

9月12日

 執筆しながら映画評論家春日太一さんの話を見聞きしていたら、こんな話が出てきた。所謂シナリオ学校では「キャラクターの公私を描く」のが鉄則というか、基本になっているらしい。公私両面を描写することで人物造形に深みを持たせるという訳だが、この「公私を描く」の部分が春日さんに言わせると「脚本がダサい要因」の一つになってしまったとのこと。考えてみれば〇〇学校の先生というのは過去に実績を残した人なのだから自ずと年配の人が多く、その方法論が旧態依然になるのも当然と言えば当然。
 話はまたもや『シン・ゴジラ』になってしまうのだが、この映画が成功した理由の一つにキャラクターの私生活をほとんど描写していないことが挙げられる。つまり巨大不明生物が首都を蹂躙し、核攻撃の危険に晒されている時、主人公の家族やら恋人の絡みなんて関係ない、むしろ邪魔だろう、という訳である。
 この映画を愉しめなかったという観客はまさにこの部分に言及していて、つまりキャラクターの「私」の部分が描かれていなかったので感情移入しにくかったらしい。ところが大多数の観客はこの種の映画に「私」など、どうでもいいとジャッジを下した。これは実は小説にも通じることで、僕などもキャラクターに感情移入させるために私的な背景や描写を色々と挿入していたのだが、そろそろこれは不必要ではないかと思ったりして、現在は試行錯誤の途中にある。
 この日記で『シン・ゴジラ』を何度も取り上げていて、「中山はホントに特撮、好きだよな」と思う人も多いだろうが、冗談でもフカシでもなく『シン・ゴジラ』というのは今まで通用していた(と、何となく皆が思っていた)作劇の基本を根底から覆すものだと僕は思っている。それこそスピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』がそれ以後の映画におけるゴア表現を一変させてしまったようにだ。実際、この映画を観た後で以前の映画・アニメ・小説・ドラマを観るとどうしても作劇の古さが際立ってしまう。もちろんそれが悪い訳ではないし、そうした作劇を未だに好む層が存在するのは無視できないのだけれど、同時にそうした様々な「お約束」はもう過去形のものになってしまったことを認識せざるを得ない。一般の観客も含め、創作に携わる人たちが『シン・ゴジラ』とその観客動員に注目しているのは、おそらくそういう理由からではないのか。

9月13日

 本日より『連続殺人鬼カエル男ふたたび』の執筆に着手。百二十枚を最低でも五日間で仕上げなければならない。裏デビュー作である『カエル男』の正統な続編なのだが、当時の狂気じみた雰囲気を取り戻せるかが勝敗の分かれ目になるだろう。
 デビュー前、もちろん計算もあったがそれ以上に熱量で書いた小説だった。今読み返しても猟奇色が強く、よくこれがあれだけ売れたものだと我ながら驚く。続編だからといって拡大再生産するなど愚の骨頂、カラーを維持したまま別種の落としどころがなければ読者さんを喜ばすことができないのも承知している。うぬぬぬ、気合い入れろおーっ。
 十二時、読みたい本が溜まったので、新刊書店に赴く。すぐ近くに神保町があるのは本当に便利で、数件も回れば欲しい本は大抵手に入る。実物を手に取り、ぱらぱらと数ページを繰り、「これこれ」と忍び笑いを洩らして籠の中に放り込む。いかにネット書店が手軽なのかは知らないが、これに勝る快感はなし。ただしあっと言う間に福沢諭吉が飛んでいくのだけれど。
 書店に来ると、見まい見まいとしても自著の置き場所に目がいってしまうのは職業病のようなものだろう。ちょうど最新刊の『ヒポクラテスの憂鬱』が入荷したばかりなので、その置かれた場所が気になって仕方がない。
 書店における平台というのは物書きのステータスの一つだ。話題本、セールスの安定している本、特定の読者が既に約束された本の定位置だが、逆に言えば平台に置かれない本はその時点で書店側から冷徹な評価を受けていることになる。これは小説だろうがビジネス書だろうがコミックだろうが全て同じだ。何というか残酷な椅子取りゲームが本の形を借りている光景であり、じっと見ていると背筋が寒くなるので、買い物を済ませた後は早々に退散したくなる。
 以前ツイッターで、自著をそっと平台に移すという涙ぐましい努力をしている同業者の存在を知った。気持ちは痛いほど分かるのだけれど、それぞれの担当者が数時間ごとに補充のチェックに回っているので、これは無駄な足掻きでしかない。すぐ元に戻されてしまうからだ。そしてまた件の作家さんがやってきて自著を移動させ、それをまた担当書店員さんが元に戻す……。
 せ、切ない話だよなあ。

9月14日

 空腹を覚えたので近所の〈サブウェイ〉に行く。
 二日前に閉店していたので、がっくりと膝をつく。近くにあり、二階からは通りが一望できるロケーションが気に入っていたので何度も利用していたのだが。
 理由は分かっている。場所が良過ぎて賃料が相当高い。毎日客でごった返すくらいでないと採算が合わないのだ。それを知っているから足繁く通ったのだ。
 街の書店とかCDショップとかが閉店すると、決まってこういうことを言う人々がいる。
『ああ、あの店なくなっちゃったんだ』
『寂しいよねー』
『何で潰れちゃったんだろ』
 それはあなたたちが、その店で本やCDを買わなかったからだ。
 同じことを言われたくないので、気に入った店は可能な限り通うようにしている。しかし所詮は大勢に流され、儚い抵抗になってしまうことが多い。
 本日、日本の最低賃金は先進国では最低レベルとの国連発表があった。もちろん最低賃金だけの話であり、平均やそれ以上の賃金レベルはまた別の話なのだろうが、それでも一つの指針にはなる。
 嫌な言い方になるが貧乏は決していいものではない。カネがなければ、得られないのはモノだけではなくなるからだ。衣食足りて礼節を知るという諺は満更間違いではない。

9月15日

 引き続き『連続殺人鬼カエル男ふたたび』を執筆。昼過ぎから歯茎が痛みを覚える。そのうち尋常な痛みではなくなってきたため、かかりつけの歯医者に直行する。
「また膿が増えてますねえ」
 いったん抜いたはずの膿がまたぞろ増殖するとは、いったいどうしたことか。
「体温が急激に上がったり疲労が溜まったりすると、こうなるんです」
 激痛がいつしか快感に変わり(そんなはずあるか)、これでしばらくは眠れずに済むとまた執筆に戻る。つくづく因果な商売だと思う。
 おお、今日は十五日。TOHOシネマズ新宿では『シン・ゴジラ』の発声可能上映が開催予定の日だった。本来なら行きたかったのだが、締め切りに追われて断念するよりなかったのだ。うううううう。
 発声可能上映というのは、言うなれば観客参加型の上映だ。海の向こうで一番有名なのは『ロッキー・ホラーショー』だろう。観客がコスプレしスクリーンに流れる曲に合わせて歌い踊るイベントで、僕などは日本には縁のない上映方式だと決めつけていた。いや、日本にも『機動戦士ガンダム』とかはシャアの台詞に合わせて「坊やだからさ」などと発声するようなことはあったが、あくまで観客が勝手に(しかも小規模に)やっていたことだった。それが今度の発声可能上映は東宝側が企画し、サイトなどを利用して手筈を整えている。しかも今回を含めて三回目だが、チケットはいずれも瞬殺でソールドアウトになってしまった。
 観る映画から愉しむ映画へ。
 今後、こうしたかたちの上映方式は増えていくだろう。いや、増えて欲しい。長らく沈滞していた映画ビジネスが復活するための呼び水となる可能性を秘めているからだ。そしてやはり映画は映画館で見てナンボではないか。
 ああー、でもホントに行きたかったなあ。仕方がないので『シン・ゴジラ』のサントラをBGMにしながら執筆を続けることにする。黙々。

9月16日

 十時、新刊『ヒポクラテスの憂鬱』書店訪問を開始。西武百貨店の前で開店を待っていると、先着していたお客さんに飲み物のサービスがあり感心した。きっと、こういう細かな心配りがリピーターを生むのだろうなあ。
・三省堂書店池袋本店さま
・ジュンク堂池袋店さま
・紀伊國屋新宿本店さま
・ブックファースト新宿さま
・三省堂書店有楽町店さま
・八重洲ブックセンター本店さま
・丸善丸の内本店さま
・三省堂書店神保町本店さま
 ありがとうございました。
 今回、多くの書店でやはり祥伝社さんから同時に刊行された知念実希人さんの『あなたのための誘拐』のサイン本が展開されていた。現役医師が警察小説を書き、ド素人の僕が医療ミステリーを書いているのだ。おかしいのではないのか。
 書店訪問を終えたのち、祥伝社にてサイン本二百冊を作成。何しろサインだけは早いのであっという間に終了する。
 時刻はまだ午後四時。先方からは夕食のお誘いを受けるが、早く事務所に戻って原稿を書きたかったので固辞して社を出る。食事なんて三日摂らなくても死にはしないが、原稿を三日書かなかったら、注文がこなくなり、結果的に死ぬ。どちらが重要なのかは言うまでもない。
 今日だけで五百冊近くサイン本を作った。もちろん売れっ子作家さんには比べるべくもないが、中山七里などという画数の少ないペンネームでよかったと思うのはこんな時だ。武者小路実篤とか薔薇憂鬱彦さんとかだったらとっくに死んでいる。

9月17日

 引き続き『連続殺人鬼カエル男ふたたび』を執筆。プロットを立てた時点で文章も考えていたので詰まることはないものの、これはちょっと困った。辻褄が合わないとかではなく、内容が唯々残虐なのだ。これは正編以上に映像化が困難になると、現段階で分かる。もっとも、当初から映像化できるものならやってみろの精神で書いているので、今更と言えば今更なのだが、想像力のたくましい読者は食事前に読めないのではないか。特にこの原稿を最初に読むであろう宝島社のKさんには同情を禁じ得ないが、これも僕みたいなヤクザな物書きの担当になったのを不運と割り切ってもらうしかない。
 六年この仕事をやってきて、最近薄々分かってきたのだが、書いている側が変な気配りをすると読者からは「ヌルい」と判断されやすい。どうせリミッターを解除しても、おそらく生理的なものが自ずと制御するだろうから、そんなことは気にせずに書き続けた方がちょうどいい案配になるのではないか。
 カレーだって辛い方が美味しいのと同じ理屈で、もちろん甘いカレーをお好きな方もいらっしゃるだろうけどやはり少数派であり、全体を考えるのなら香辛料は多めにしよう。
そして僕は残酷描写に心を込める。ぐさぐさぐりぐりぴゅるぴゅるどばどば。

9月18日

 富山市議会がえらいことになっていて、十六日時点で辞職あるいは辞職表明した市議は八名にも上る。これで欠員が定数の六分の一に達したため、補欠選挙が実施される羽目になった。彼らを辞職に追い込んだのは政務活動費不正問題だが、ことは富山市議会に限らず、どこの自治体にもあり得ることなのだろう。つまりは議員一人一人、政活費が生活費になってしまっているのだ。
 いつも思うが、こういう際に議員を簡単に辞職させて何の得があるのだろう。「政治家の責任の取り方は出処進退」とはよく言われるが、辞めたところで支持者との関係を深め、次の選挙で返り咲けばそれで終いではないか。大体が簡単に辞めようとするヤツは簡単に返り咲こうとするし、そしてまた簡単に不正しようとする。それに補欠選挙にでもなったら、また大切な税金がしょーもないことで消費されてしまうのだぞ。
 いっそ国会議員から町議会議員まで議員と名のつくものは「任期中は死亡か執務不能なほど重篤な疾病にならない限り、辞職を認めない」という法律を作ったらどうか。
 贈収賄で告発されようが政務活動費で不正しようが失言をしようが、辞職は一切認めない。その代わり歳費を大幅にカットする。同じ会派の議員も連帯責任として歳費や政務活動費をカットする。問題を起こした議員は方々から石を投げられ、タマゴをぶつけられ、揶揄され、罵られ、同じ会派の議員からも責められ、毎日が針の莚になるだろうが、絶対に辞めさせずに議員としての仕事を全うさせる――それくらいのことをしなければ、今後も議員の不祥事はなくならないと思うのだがどうか。
 噓か真か知らないが、徳川家康の人となりを示すエピソードでこんなのがある。ある時、城中で宴が催され、悪酔いした一人の家臣が襖をぶち抜いた。早速お付きの者が襖を取り換えようとしたところ、家康はそのまま放置しておくように命じた。翌日、すっかり酔いの醒めた件の家臣は穴の開いた襖を見る度に恥じ入り、二度と酒席で狼藉を働くことはなかったそうだ。家康らしい底意地の悪い且つ老獪なお仕置きであり、だからこそ僕みたいな性格の歪んだ人間はこういう話が大好きなのだけれど。

9月19日

 とりあえず『連続殺人鬼カエル男ふたたび』を半分まで書き上げたところで、有楽町日劇にて『BFG』を観賞。スピルバーグ作品は『ブリッジ・オブ・スパイ』以来になるが、近年ますます職人監督となってきた印象がある。何というか徹頭徹尾ディズニー映画であり生粋のファンタジー映画であり、こちらも観賞態度をチェンジしなければこの映画の面白さを充分に味わえないのだろうと思う。
 どんなジャンルに手を突っ込んでも必ず水準以上のモノを創る、というのは存外に難しい。ジャンルにはジャンルの約束事というかテンプレがあり、それらは時として作家性と相反するものだからだ。その点、手塚治虫とスピルバーグというのはやはり巨匠なのだとつくづく思う。僕が特定のジャンルだけではなく、まるで雑食性のように色々な小説を書いているのも、一つにはこの二人の影響があるのかも知れない。
 事務所に戻ると三省堂Aさんより〈美女と夜会〉第二回目の企画が送られていた。今回の相手にと打診されたのは十一月に小学館さんから新刊の出るあの方。ちょうど僕の新刊も小学館さんから出るので色々都合がいいのだろう。意外な人選だったが、僕の方でも予てからお話ししたいお相手だったので二つ返事で承諾しておく。問題は先方さんが僕を嫌っているかどうか。
 いや、本当に最近は色んなところで色んなことを言われているんだったら。もちろん同業者に嫌われるくらいでないと、やっていけないんだけどさ。

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